【三冊屋】<生命>が時代の理念となるとき(中原洋子)

2020/09/29(火)18:36
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 人は一人で生まれ、一人で死ぬ。そう気づいた時に、宇宙は一気に近づいてくるように思う。そこにあるのは、絶対的な孤独感、広大な宇宙空間に放り出された一人ぼっちの自分だ。

 

 人類は小さな球の上で
 眠り起きそして働き
 ときどき火星に仲間を欲しがったりする

 『二十億光年の孤独』で、「僕」は一人ぼっちで宇宙空間の彼方を見はるかし、火星に仲間を求めている。

 

 二十世紀初頭、ユクスキュルが唱えた「環世界」論は、二十一世紀を過ぎた今となっても、春先の櫟の若葉に置かれた朝露のような瑞々しさに溢れている。 生物は、それぞれの知覚し作用する「環世界」の中で生きている。どんな世界に生きているのか、それは当時者にしかわからない。自然はひとつでありえないし、自然像もひとつではありえない。人間も地球という青い球の上で生きている生物の一種に過ぎないのだ。  

 『生命の劇場』は、個々の生物は一定の役割を演じつつ、宇宙の巨大なドラマに参加しているのだということを、読み手に常に忘れさせない。

 

 『サピエンス全史』で、ユヴァル・ノア・ハラリは、「幸せ」について問いかける。文明は人間を幸せにしたのだろうか、私たちは以前より幸せになったのだろうか。人類がここまで繁栄できたのは、その比類なき言語のおかげだ。想像力、比喩力、物語力があったからこそ、サピエンスは全地球の主となり、いまや神になる寸前まできている。  

 二十一世紀になり、遺伝子工学、サイボーグ工学など私たちのテクノロジーはかつてなかったほど強力だ。しかし、それほどの力を何に使えばいいかは見当がついていない。どこに向かっているのかもわからない。病気を治療し、人命を救うためという大義名分のもとにただひたすら突っ走る。ブラック・スワンに怯えながらの目標のない進歩は空虚であり、不安であり、孤独を募らせる。  

 

 万有引力とは   

 ひき合う孤独の力である  

 

人間は相変わらず一人ぼっちで、今も火星に仲間を欲しがっている。  

 

 人間の<生命>のみでなく、人間をその一部とする、

いわば大文字の<生命・LIFE>に思いを致したい時にお薦めの三冊。

 

 

●3冊の本:

 『サピエンス全史(上下)』ユヴァル・ノア・ハラリ/河出書房新社
 『生命の劇場』ヤーコプ・フォン・ユクスキュル/講談社学術文庫
 『二十億光年の孤独』谷川俊太郎/集英社文庫

  • 中原洋子

    編集的先達:ルイ・アームストロング。リアルでの編集ワークショップや企業研修もその美声で軽やかにこなす軽井沢在住のジャズシンガー。渋谷のビストロで週一で占星術師をやっていたという経歴をもつ。次なる野望は『声に出して歌いたい日本文学』のジャズ歌い。

コメント

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山田細香

2025-06-10

 この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
 建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

山田細香

2025-06-10

 藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。

堀江純一

2025-06-06

音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。