この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

新しい伽藍は白い。だが、それは次第に黒く汚れてしまう。だからこそ、常に新しい輝きを求めるべきなのである。
にもかかわらず、その汚れたものを美化し、あまつさえいまだ白いと言い張り、守り、固執する人間がいる。
『伽藍が白かったとき』には、建築のみならず、絵画、都市計画、インテリア・デザインといった広い領域での「近代の精神」の実現を目指していたコルビュジエの信念が詰まっている。
アーティストは単なるお飾りの美を生み出す芸術家ではなく、日常に規律と調和をもたらすためのクリエイターでなければならない。必要なのは、温故知新に留まらない換骨奪胎。過去に学ぶのではなく、本歌取りしながら新しい表現を見つけていく使命がある。愛する国立西洋美術館もサヴォア邸も、単なる容れ物ではない。中世的思想を支えにしつつも、近代的機械を取り入れることで新たな機能的価値を生み出す、文明開花論そのものなのである。
彼が求めていたのは、規律であり調和であった。だが、それらは決して、凝り固まった静的なものでも、物質的な真実でもなかった。人々の意識の問題として、むしろ動的に「あり」つづけること、明確に「見る」ように努めることだった。
コルビュジエの建築には「物語」がある。
ならば、『伽藍が白かったとき』というブラックボックスに、切実な空への希望を、日々生まれ出る自身の日常に乗せていたサン=テグジュベリと、美意識にも似た見方への信念を、日々変化する内面の、変化しない非日常に乗せていた倉橋由美子を容れてみたら、どのような関数と解が生まれるのか。
千夜千冊で「サン=テグジュペリ以外の誰もが描きえない、まさに『精神の飛行』」と評された『夜間飛行』では、短い作品をさらに23章に分割し、映画のような場面編集を生かして、飛行輸送人ファビアンの危機感と絶望、支配人リヴィエールの押し殺した強い使命感を余すことなく伝えている。
私と空への憧れを同にするサン=テグジュペリは、名門貴族の子弟として生まれ、パイロットと作家以外にも、数々の顔を持っていた。郵便飛行機の管理者として、南米やアフリカへの路線を開拓した空の時代の先駆者。建築家。航空力学の専門家としてジェット機の開発を目指し、その特許を所有する天才技術者。第二次世界大戦における戦場の英雄。数学者であり、哲学者。多彩な天才作家は、当時、常に死の淵と隣り合わせだったパイロットとして、数々の冒険を通して人間と文化を上空から眺めていた。
前衛は、規律を持たなければ成し遂げられない。サン=テグジュベリの眼差しには、時代や人種、国境を越えた普遍的な真実が滲む。
一方の倉橋由美子は、私の生涯消えない疵である。内側を引っかき続け、もはや瘡蓋にすらさせてくれない。未紀と同様、「いま、血を流しているところなのよ」だ。
目指していた医師への道は挫折、歯科衛生士からもドロップアウトして、フランス文学を学ぶ。この奇妙な経歴の一致は、私たちが魂の双生児たる所以の一端でもある。サルトル、カフカの影響を受けた観念的小説で評価を得る一方、中期以降は古今東西の古典文学を本歌取りする作風が加わった。膨大な知識を絶妙な塩梅で用いることで、自身の主義・思想を二重三重にも擬態して突きつける。読み手の知力、想像力、読書力が残酷なまでに試され、ついてこられなければ容赦なく振り落とす。
何が真実で何が嘘なのか、『聖少女』は、現実を甘い虚構で包みながら、虚構を現実に模した螺旋多重構造を、独特の淡々とした筆致で描く。異常な世界である近親相姦にある種の調和をもたらし、選ばれた愛に聖化するという試みは、成功どころの話ではない。大成功だった。
コルビジュエはいう、1957年のパリで。
「視覚が一たび自己の前に確保されれば、行く道の不安定と起伏がはっきり現われる。導きの線が見分けられ、引かれる。そして導きの線によって人は行動できるのだ。そこに事実がある。そして、そこに問題があるのだ。」
●書名:
●3冊の関係性(編集思考素):二点分岐と一種合成
小濱有紀子
編集的先達:倉橋由美子。古今東西の物語を読破し、数式にすることができる異才。国文学を専攻し、くずし字も読みこなす職能。自らドラムを打ち鳴らし、年間50本超のライブ追っかけを続ける情熱。多彩で独自の編集道を走る、物語講座・創師。
リアルな師脚座は、ますます物語に満ちている【16綴物語講座への誘い】
9月3日(日)。 残暑どころか、まだまだ盛夏と見紛うばかりの熱気のなか、当期指導陣全員がイシス学林局に集合。 16綴師脚座は、久々に完全リアル開催と相成りました。 師範からの熱い厚いプログラムレクチャーはい […]
いざ、発見と構築の「物語」という方法へ【16綴物語講座への誘い】
先日、「ガウディとサグラダ・ファミリア展」に行ってきました。 展示は「人間は創造しない。人間は発見し、その発見から出発する」という素晴らしい名言からスタートしたのですが、私の人生の師のひとりであるガブリエル・タルドの「す […]
14綴から新設された「トリガー・クエスト」の最後のお題が出題され、1週間後に参稿を控える12月4日(日)。 待ちに待ったリアル稽古「蒐譚場」は、今年もオンラインと本楼でのハイブリッド開催となった。 だが、南は石垣島から北 […]
昨季14綴で、開講以来初の大幅なお題改編(「異端で異質。物語講座 14綴から、新たな冒険がはじまる」)を経て、さらにウキウキの止まらない物語講座。 世界を切り拓くアウトロー・イシス編集学校において、さらなる横超・凌駕を画 […]
すでに「物語講座四冠受賞の男【78感門】」で授賞式の顛末ごとお伝えしたように、受賞者本人も驚く間もないくらい、鮮やかな4冠で幕を閉じた14綴・物語講座。 さて、物語講座アワードの名物といえば、各プログラムや […]
コメント
1~3件/3件
2025-06-10
この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。
2025-06-10
藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。
2025-06-06
音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。