中世仏教と能に「編集日本」を見る ー近江ARS「還生の会」第4回報告と第5回案内

2023/07/17(月)08:09
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いつしか世間の関心から遠のいた近江の地から「もうひとつのスタイル(Another Real Style)」=「新たな日本の様式」を生み出そうというのが近江ARSという一座だ。2023年2月18日、「中世仏教のダイナミズム・鎌倉仏教観の転換」と題し、第4回目の「還生の会」が開催された。


 


 白足袋姿の松岡正剛が三井寺長吏の福家俊彦とともに、鏡板に描かれた老松を背に能舞台に立った。「仏教の会になぜ能なのか?」ワキの導きによって、中世において大きく花開いた両者と出会いなおす一日がはじまった。

 観世流の能楽師の河村晴久氏がこの日のために用意した演目は、世阿弥作の『屋島』と元雅作の『隅田川』。世阿弥と元雅を隔てるのはたった数十年であるものの、それぞれの生きた時代を背負い、メッセージも一通りではない。「能」だからとまとめることなどできない。600年続いてきても決して古いものではないと河村氏が語り、松岡も大きく頷いた。

 続いて、末木文美士氏が、中世における仏教の変化を語る。まずは、旧仏教の堕落に抗って鎌倉新仏教が出現したという二項対立的な見方に異議を唱えた。次いで、平安初期の安然から、源信、覚鑁を経て、鎌倉後期の無住までの仏教者の足跡を辿る。国家のための平安仏教から個人の実践を重視する中世仏教への変化を示す。さらに地を政治の領域にうつして、為政者たちの仏教観をも映し出した。常に仏教を時代背景と合わせて見るのが末木流だ。

 能と仏教、それぞれの変遷を辿り、松岡が「修羅」というキーワードを持ち出した。死がより身近になった武家社会において、個人が抱えもつ不安や葛藤に注目したのが、世阿弥であり、源信ら中世人だという。政治や芸術の領域においても、平清盛の出家、西行の遁世、後白河法皇の今様狂いと枚挙にいとまがない。日常的な「顕」と非日常的な「冥」とで世界で捉え、死者や神仏が属する「冥」の世界のほうにリアリティを見出したのが中世の人々だったわけである。

 松岡は、いまこそ修羅に注目した中世日本の世界観が必要と声を大にする。現代は、中世よりもずっと自由自在に場所を動けるし、どんな距離を超えてもコミュニケーションができる。が、その「顕」の世界ですべてが済むかというとそうではない。私たちの内には、たくさんの恐れ、葛藤、迷いがある。河村氏の舞や謡が正確にはわからずとも、どこか心が疼くのは「冥」の世界でしか扱えないものの存在ゆえだろう。決して「顕」の世界では回収されないものである。

 能においてはワキが、仏教においては僧侶が、時空をまたいで苦悩や無念を眼前に呼び起し、現世での成仏に執着しない生き方を示す。死と生、人間と神、「かくるるもの」と「あらわるるもの」が、時代も場所も超えて混然一体となる。日本的な世界観の特徴がここにあるのだ。

 松岡という現代のワキの導きによって、中世の日本人と日本仏教が差しかかった世界観がありありと現出する一日となった。これは、決して過去のものではない。中世の先達からどのようなモデルを借りることができるのか。書棚にしまっていた『千夜千冊エディション 戒・浄土・禅』を改めて手に取る。そこには、インド・中国に仏教の来し方を辿りつつ、日本という地にあわせて「乗り換え・着替え・持ち替え」を起こしたり、時空を超えて釈迦の声を求めて新たなスタイルを作りあげる姿がある。社会のルル三条に縛られ、安穏と窮屈を嘆いているばかりでない。

 次回のテーマは「土着と論争――近世仏教の魅力」。西欧のキリスト教、中国の儒教と比較しながら、異なる発展を見た日本の仏教の変遷を辿る。全8回の「還生の会」も折り返し地点を過ぎ、三井寺も万緑を迎える。時分を逸すべからず。

(第4回「還生の会」の詳細は、近江ARSのサイトをご覧ください。
https://arscombinatoria.jp/omi/news/35

 


◆近江ARS 第5回「還生の会」の詳細
◎日時
令和5年8月26日(土)14時~19時30分頃(受付開始13時30分)
 
◎テーマ
「土着と論争ー近世仏教の魅力」
 
<第1部> 兆し
<第2部> 語り |末木文美士ソロトーク
<第3部> 振舞い
<第4部> 交わし|末木文美士、松岡正剛、福家俊彦 ほか

◎場所
三井寺事務所|〒520-0036 滋賀県大津市園城寺町 246
 
◎出演
末木文美士 未来哲学研究所所長
松岡正剛  編集工学者
福家俊彦  三井寺長吏
 
◎定員
現地参加   約80名
※<第1・2・4部> 期間限定のアーカイブ配信(有料)があります。

◎申し込み
https://hyakkenmarket.jp/products/detail/38


 

  • 阿曽祐子

    編集的先達:小熊英二。ふわふわと漂うようなつかみどころのなさと骨太の行動力と冒険心。相矛盾する異星人ぽさは5つの小中に通った少女時代に培われた。今も比叡山と空を眺めながら街を歩き回っているらしい。 「阿曽祐子の編集力チェック」受付中 https://qe.isis.ne.jp/index/aso

コメント

1~3件/3件

山田細香

2025-06-10

 この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
 建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

山田細香

2025-06-10

 藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。

堀江純一

2025-06-06

音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。