新たな原風景が立ちあがる――こまつ座『母と暮せば』観劇

2024/08/20(火)07:12
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 今年のお盆休みは、実家で「いただきます」というたびに、温もりと痛みとが同時に走った。それは、ひと月前の観劇体験のせいなのだろうと思っている。


 2024年7月24日の18時開演。遅れたら入場できないかもしれないとのこと。17時までの会議を終えて、サッと会社を出て、17時10分の電車に飛び乗った。こまつ座による『母と暮せば』の大阪公演のゲネプロに向かう。売り切れでチケット入手ができなかった長崎の原爆をテーマにした母子の物語だ。調べておいた駅からの最短ルートを走って劇場着。10名強のイシス編集学校のメンバーも一緒だと聞いている。53[守]の指導陣の背中が見える。オンライン汁講で会った学衆さんもいる。17時50分、挨拶もそこそこに席に座った。

 

 

 舞台の暗がりに、蝋燭の灯が点る。開幕の合図だ。
 のっけから、死者となった息子・浩二と生き残った母・伸子の二人による会話が続く。「幸せは、生きている人間のためにある」。優しいのだけれども、どこか恐ろしいこのセリフが、何度か浩二の口から飛び出す。冷酷な生者によって、死に至らされた浩二は、婚約者の町子と結婚し、新たな家庭を築くはずだった。生き残った町子は新たな相手と結ばれ、死んだ自分はいつまでも一人ぼっちのまま。引き裂かれるような表情で、浩二がこのフレーズを口にするたびに、胸が疼いた。夏休みだけ一緒に過ごした亡き祖父の声が遠くから蘇る。「パイロットの表情が見えるくらいの距離にB29が迫ってきて、柱の影に隠れた。お互いに必死だった」。私たちの生の前には、たくさんの人の死がある。

 

 舞台がもっともイキイキと躍動したのが、伸子がつくった空想のおにぎりとお味噌汁を浩二がほおばるシーン。そんな速度で呑み込めるはずないやんと心の中で突っ込みつつも、切なさが募る。お米もお味噌も手に入らない。「ない」から、かえって豊かにその存在が浮かびあがる。何人も、私たちの想像力を奪うことはできないのだ。いっぽう、見ていられないほど痛かったのは、原爆にあった瞬間を浩二が再現するシーン。熱さにのたうちまわる浩二を身をすくめながら見つ続ける伸子。私たちには、決して目をそらしてはいけないものがある。浩二の身体の痛みと伸子の心の痛みとが観客席にも届き、いてもたってもいられない。

 

 始めのうちは、次々繰り広げられる動作と言葉についていくのに精一杯。が、いつの間にそんなことも忘れ、涙と笑いを行き来する90分が終わった。二人の役者が、緊張した面持ちで、こちらに向かって頭を下げる。役者も観客も、誰もが人という地でつながる瞬間だ。

 

 歴史の教科書で習った一時代前の戦争、ニュースが伝える遠い地の戦争。母がつくるおにぎりの味わい、大切な相手と一緒に時間を重ねたい想い。固いメディアを通して届く大きな事象と個々のなかの手触り感ある小さな機微、その連なりの間に私が存在し、決してどちらとも切り離せない。なら、いまここから、どう生きればよいのか。この場を共にした誰もが感じたに違いない「感」や「問」が、拍手の音とともに言葉を帯びてくる。

 

 

 薄暗がりのホールを出て、あらためてイシスの仲間たちと出会いなおした。ただ事ではない90分を過ごした同志たちに多くの言葉は必要ない。涙の跡を少しだけ気にしながら、一同で写真に収まった。私たちのなかに宿った新たな景色(原風景)を忘れるものか。

 

 

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  • 阿曽祐子

    編集的先達:小熊英二。ふわふわと漂うようなつかみどころのなさと骨太の行動力と冒険心。相矛盾する異星人ぽさは5つの小中に通った少女時代に培われた。今も比叡山と空を眺めながら街を歩き回っているらしい。 「阿曽祐子の編集力チェック」受付中 https://qe.isis.ne.jp/index/aso

コメント

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山田細香

2025-06-10

 この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
 建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

山田細香

2025-06-10

 藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。

堀江純一

2025-06-06

音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。