ISIS co-mission 対談 武邑光裕X林頭吉村 ~ 僕らがメディアを取り戻すために 【84感門】

2024/10/03(木)12:00
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4月にISIS co-missionメンバーに就任した武邑光裕氏と学林局林頭 吉村との対談が、感門之盟1日目の最後を飾った。遊刊エディストに連載中のコラム「新・メディアの理解」をテーマに、その意図するところを掘り下げた。
 

●メディアには美学が必要だ

吉村:武邑さんはメディア美学者を名乗られていますね。
 
武邑:古代中国では、羊は「善」の象徴でした。「美」という字は羊が大きいと書きますが、神への供物として大きく肥えた羊が尊ばれたのです。古くから美学と倫理はとても近い関係にあります。
マクルーハンが「最初に、私たちは道具を作り上げる。次に、道具が私たちを作る」と言っているように、自ら生み出したテクノロジーが僕らの精神をコントロールするような時代においては尚更、メディアに美学が必要だと思うのです。
 今の中国に目を向けると、スマホメディアを通じてマイクロドラマのような中毒性のあるコンテンツが人々に強い影響を与えて、規制の対象になっています。ますます肥大化していくテクノロジーやメディアに対して、警告を発する立脚点としても美学は必要でしょう。
 

●理解の奥にあるもの

吉村:遊刊エディストで、今年の8月から「新・メデイアの理解」というコラムの連載を開始されました。なぜ、いま「理解」に焦点を当てたのでしょうか?
 
武邑:英語では「アンダー・スタンディング」で、理解とは「目に見えないところに立つ」ということを意味しています。理解は不可視な基礎や根拠に向き合うことで、それは因果性から始まります。ヨーロッパでアリストテレスを読み込む必要に迫られ、因果関係を探求しているうちに、それが編集とつながっていることに気がつきました。すると松岡さんとアリストテレスが重なって思えたんです。
 
吉村未知なる原因を措定するアブダクションと因果性は密接に関係していますね。本質をつかんでいなければ、仮説も稚拙なものに留まります。
 
武邑:しかし現代は、基礎に立って何かを見るということを忘れた時代といえるかもしれません。大学をみると、再現性やエビデンスに重きを置きすぎて、形而上学や因果論を軽視しています。それが理解を狭めてしまっている。ベルリンに渡って大学を遠くから眺めたとき、「僕らは因果関係や本質というものを本当に理解しているのか?」という疑問が浮かびました。
 
吉村:「この社会は編集を終えようとしている。だから僕はそれにあらがいたい」と松岡は言っていました。
 
武邑:アメリカでは一週間に一校のペースで大学が廃校になっていて、そのペースは去年と比較して二倍に加速しています。その背景には、個別の学びを重視する少人数のマイクロ・スクールの広がりがあって、教えるー教えられるという既存の教育モデルは、今や崩壊しつつあります。
TEDの創設者であるリチャード・ワーマンが、松岡さんに「編集は理解の本質」だと伝えたと伺い、膝を打ちました。「編集」はアナロジーによって異なる情報の間に関係を結びます。「理解」を根源的に問い直すことは、関係の奥に潜むアーキタイプに遡及する「編集」と重なって、今こそ求められているのだと思います。
 

 

●次に来るメディアのかたち

吉村:コラムの第二回ではスマホというメディアによって、世の中がディストピアに向かう可能性について言及されています。武邑さんは現在のテクノロジーの発展をどう受けとめていますか。
 
武邑:デジタル時代は記憶が増強される時代といえます。若い世代の人が、話をしながら矢継ぎ早にスマホで検索するのを目の当たりにして、スマホはすでに彼らの外部記憶装置になっていると感じています。僕はこれを能動的でよい意味で捉えていて、スマホ依存症のような負の側面があるとしても、デジタルは僕らになにかを理解し考える能力、原因と結果においても全く新しい科学といったものを要求していると思います。
今後は、瞬時に膨大な記録にアクセスできる、拡張された記憶をもった若い世代によって、人間自体を変えてしまうような巨大な変革が起きるでしょう。そういう時代の中で、僕らを動かし、かつ僕らが動かしているメディアの役割は益々重要になると思います。
 
吉村:メディアの話がでたので伺います。「遊刊エディスト」は、糠床のような愛着の湧くメディアを目指して立ち上げました。次の狙いは、外に開かれていて、なおかつ愛着がもてるメディアに仕立てることですが、そのために必要なことは何でしょうか。
 
武邑:これからは自分自身でモデレーションができるメディアが必要になってくるでしょう。多くのネットメディアが承認欲求を満足させる方向に流れ、今ではだれもが作家=投稿者です。しかし、そこにはコンテンツモデレーション(投稿のモニタリング)をする編集者の姿がありません。それがフェイクニュースの流布につながって、僕らはいろいろな真実と疎遠になってしまっています。
SNSで次々に出現するコンテンツ、小さなメディアと呼べるウェブサービスといったものに触れる過程で、自分とメディアの関係をいかに自己組織化し直すか、今一度立ち返ることが必要でしょう。
 
吉村:これからの時代は、メディアと自分の間を編集する力が求められるわけですね。
 
武邑:両者の関係を再構築するために、モデレーション=調停は必要です。各個人が編集者というロールを受け持つようなメディアのあり方が、これからの大きな課題だと思います。
 
***
 
2024年12月に開講する新企画「多読アレゴリア」には、武邑光裕氏を顧問に迎えた「OUTLYNG CLUB」が誕生する。目に見えないところに立って、世界に楔を穿つ秘密結社の活動に乞うご期待。

 

  • 西宮・B・牧人

    編集的先達:エルヴィン・シュレーディンガー。アキバでの失恋をきっかけにイシスに入門した、コンピュータ・エンジニアにして、フラメンコ・ギタリスト。稽古の最中になぜかビーバーを自らのトーテムにすることを決意して、ミドルネーム「B」を名乗る。最近は脱コンビニ人間を志し、8kgのダイエットに成功。

コメント

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山田細香

2025-06-10

 この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
 建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

山田細香

2025-06-10

 藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。

堀江純一

2025-06-06

音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。