ビーダマイヤーな現代に向かう千離衆の編集力

2019/12/10(火)10:52
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 「総力を結集する」と銘打った本楼声文会が2019年12月1日に行われた。

 世界読書奥義伝[離]を退院した者は「千離衆」と呼ばれ、声文会は、千離衆のための「文巻([離]のテキスト)を読む」集いである。松岡正剛校長著書の『千夜千冊エディション』出版後は、それも読み解いている。

 東京で行われる声文会は本楼声文会と呼ばれ、今回は『千夜千冊エディション』から『神と理性』と『観念と革命』(共に松岡正剛、角川ソフィア文庫)を用いた西洋世界観の一気通貫読み。西洋哲学や西洋史のウズ・ヒダ・ネジレに分け入る特別企画だ。

 

 会場は豪徳寺イシス館の学林堂で、10人程度の打合せに適した部屋に30人近くが集合した。人口密度以上に部屋の熱気を加速させているのは、レクチャー担当者たちだ。彼らは出番までの高まりを抑えきれずにいた。

 「ビーダマイヤー時代は僕も知らなかったんですけど」。会も半ばを迎え、『観念と革命』第2章「神は死んだのか」担当の桂大介(11[離])のパートがはじまる。

 

 ビーダマイヤー時代とは、1815年から1848年のウィーン体制下のドイツ社会である。宗教観念は日常にすぐに役立つ実用ばかりが求められ、匿名の力を借りたメディアとコピー文化が花開く。思索の価値よりも展示の価値、シンキングよりショーイング…。桂のレクチャーによりドイツ社会が開き、参加者それぞれの読みと交じり合う。「これって現代のことじゃないか」と、参加者たちが現代との類似を感じていた時、松岡校長が声文会に顔を見せた。

 

 松岡校長の登場に緊張の面持ちを隠せない者もいたが、桂は身構える素振りも見せず、続ける。配られたレジュメに目を走らせ、用意された席に座った松岡校長はゆっくり煙草の煙をくゆらせる。「ビーダマイヤーはちょっと面白くてね」。桂の内容を受け、松岡校長のミニレクチャーが入る。現代とのカサネを見せながら、桂のレクチャーに厚みを持たせ後押しし、最後に穏やかでありながら鋭い視線を千離衆に向ける。「ビーダマイヤー時代の編集モデルを見て、君たちは現代社会をどう編集する?」と、無言のメッセージを投げかけた。

 

 退院後も千離衆は「一生の離」を考え続ける。自らお題をつくりだし、社会と世界と向き合っていくのだ。
 社会と生命に準じて世界と自分の見方を学んだ「千離衆の編集力」が試されている。

  • 衣笠純子

    編集的先達:モーリス・ラヴェル。劇団四季元団員で何を歌ってもミュージカルになる特技の持ち主。折れない編集メンタルと無尽蔵の編集体力、編集工学への使命感の三位一体を備える。オリエンタルな魅力で、なぜかイタリア人に愛される、らしい。

コメント

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山田細香

2025-06-10

 この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
 建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

山田細香

2025-06-10

 藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。

堀江純一

2025-06-06

音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。