この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

今、松岡さんと交わしたいくつかのQ&Aがおのずと思い出されます。中途半端が大嫌いな松岡さんに質問をするのは、勇気のいることでした。「きみたちの質問はまだまだ浅い。ぐーっと深いところに潜ってそこからくぐり出てきたような質問が無い」とたしなめられたこともありました。
思い出深いのは、『プラネタリーブックス 存在から存在学へ』にある、精神と物質について書かれた一文をめぐるやりとりです。
「精神と物質という考え方は、いま対立しているというか、並列しているものですね。いつ頃からかわからないけれど、少なくとも古代中国、古代インドの時代からそうなってきているわけです。しかし、この並列のトリックから脱出しないといけない。どのようにしてか。よく聞いてください。身体は自然史の一部である物質だというふうにおもう精神があることによって、精神が物質化を受けている、ということなんですよ」(92ページ)
工作舎から1979年に出た本です。この文章について現在どのように考えているのかを、どうしても知りたい。2010年頃、感門之盟が終わった時に思い切って質問しました。
「あの文章について、今はどのようにお考えですか」
控室に戻ろうとしていた松岡さんは歩きながらうつむき加減にぽつりと答えてくれました。
「ずっと考えている。今は、精神と物質はコンティンジェントになっていると思っている。それも何重にもぐるぐるになったコンティンジェント」
その表情は厳しかったです。まだまだ潜れていないのだなと思い、背筋が伸びました。
ありがたいことに、松岡さんの本の編集にかかわらせてもらう機会を二度いただきました。2021年の『うたかたの国』と、今年5月に上梓された近江ARSの『別日本で、いい。』です。『別日本』の編集過程で、私は写真の見方を全然わかっていないことに気づきました。編集会議の合間に、写真について率直に尋ねました。
「写真の見方がわかりません。写真の良し悪しがわかりません。どうしたらよいでしょうか」
「自分で調べなさい!」と、一喝されるかと思いましたが、丁寧に教えてくれました。
「いろいろな人が写真について書いているが、まずは飯沢耕太郎を読むといい。でも、それだけではだめ。スティーグリッツって知ってる? アルフレッド・スティーグリッツ。画家のジョージア・オキーフの旦那。写真はスティーグリッツを機に変わる。彼がわからなければその後の写真家のこともわからない。彼の影響でF.64という写真家集団が出て、被写界深度やフォーカスによって野菜のピーマンがまるで女体のように見える写真が生まれる。写真だけじゃなくて、アートもわからないといけない。たとえばフランシス・ベーコンとか。ファッションもわからないといけない。能五十番という言葉があるように、写真も同じで、写真集を50冊読むと見えてくるものがある」
言われたように読んでみました。写真がわかったとは到底言えませんが、おかげさまで写真を見ることは大きな楽しみの一つになりました。
最後の質問は、今年4月29日の近江ARS TOKYOの夜。無事に会が終わり、打ち上げも済んだ後、あのふわふわしたやわらかい手と握手をする機会があったので、いつか聞きたいと思っていたことの一つを咄嗟に尋ねました。『別日本』の中には、松岡さんの書いた「琵琶湖羯諦」(339ページ)があります。計48枚の琵琶湖写真の一枚一枚に、「風をいたみ……」「 樹枝はいずくに依らん」などと漢詩風の詞葉を添えたビジュアルページです。
「あの詞葉は、縦から読んでも、横から読んでも、どちらの順番に読んでも意味が通るように作ってあるんですよね?」
「そうだよ」
にこにこしながら、こともなげにそうおっしゃったのが忘れられません。
松岡さんが「ここで最後の仕事の荷を解かなければならない」と確信した近江ARS。大きなテーマの一つは、慈円の『愚管抄』にも出てくる「顕と冥」です。見えるものと、見えないもの。このテーマから、私はしばしばドイツ・ロマン派のノヴァーリスの言葉を連想していました。
「すべての見えるものは、見えないものにさわっている。聞こえるものは、聞こえないものにさわっている。感じられるものは、感じられないものにさわっている。おそらく、考えられるものは、考えられないものにさわっているだろう」
これを私になりに別様に言い替えてみると、すなわち、ネルソン・グッドマンの『世界制作の方法』よろしくバージョンを作ってみると、こうなります。「会えるということは、会えないということにさわっているだろう」。もし、そうであるならば、逆も真なりで、「会えないということは、会えるということにさわっているだろう」と言えると思うのです。たとえば、本居宣長の死後に弟子入りした平田篤胤が「没後の門人」を自称したことや、芭蕉が五百年もはるか昔の西行を慕ったことは、会えないことを乗り越えていると思うのです。
そう思うのですが、松岡さんはどう思いますか。
もう一度質問をしてみたいものです。
松岡さんにはたくさんの美学があったけれども、尾学(びがく)もありました。それに肖って、最後に歌の尾っぽを一つ添えます。歌人でもあった慈円が、頼みにしていた甥の藤原良経を失った時に作った挽歌です。
これぞこの世のことわりと思へどもたぐひなきにはねをのみぞなく
(別れはこの世のことわりとはわかっているけれど、たぐいなき人との別れにはひたすらに泣けてくる)
慈円の悲しみは時を超え、今われわれの隣で一緒にしているかのごときです。
数学者であり仏教にも詳しかった岡潔が『一葉舟』におもしろいことを書いています。
「明治以後、日本人は西洋の物質主義の中に住んで、人は死ねばそれきりとしか考えられなくなったようであるが、明治以前の日本人はそうは考えなかった。特に典型的な日本人は、日本的情緒の中から生まれてきて、その通りに行為し、またそこへ帰っていく。それを繰り返す、と思っていたらしい。私もそう思っている」
そこから生まれて、そこへ帰る。ここにおいて隣人への〝あはれ〟が生まれる。芭蕉はその消息を掬い取って、「秋深き隣の人はなにするぞ」と詠みました。松岡さんはいま何をされていることでしょう。
1977年に野尻抱影と稲垣足穂の両翁を追悼した「遊」の臨時増刊号のコピーは、「われらはいま、宇宙の散歩に出かけたところだ」でした。松岡さんに手向けるのであれば、こう綴りたい。
「われらはいま、編集の宇宙でいないいないばあをしているところだ」
米山拓矢(編集屋)
エディスト編集部
編集的先達:松岡正剛
「あいだのコミュニケーター」松原朋子、「進化するMr.オネスティ」上杉公志、「職人肌のレモンガール」梅澤奈央、「レディ・フォト&スーパーマネジャー」後藤由加里、「国語するイシスの至宝」川野貴志、「天性のメディアスター」金宗代副編集長、「諧謔と変節の必殺仕掛人」吉村堅樹編集長。エディスト編集部七人組の顔ぶれ。
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2025-06-10
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2025-06-10
藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。
2025-06-06
音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。