文章が書けなかった私◢◤[遊姿綴箋] リレーコラム:堀江純一

2024/05/08(水)08:45
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 デジタルネイティブの対義語をネットで検索してみると、「デジタルイミグラント」とか言うらしい。なるほど現地人(ネイティブ)に対する、移民(イミグラント)というわけか。

 私は、学生時代から就職してしばらくするまで、ネットだのデジタルだのと全く無縁に過ごしてきた世代だ。逃げも隠れもなきデジタルイミグラントである。

 そういう世代には珍しくないことだが、私は文章が全く書けなかった。

 ある時期までは、よほど筆まめな人でないかぎり、いい大人が仕事以外で文章を書くなんて、普通はしなかった。だから私のようなタイプは、さして珍しくもなかったのである。

 とはいえ、私はかなり極端な方で、メールなどが徐々に普及してきて、自分も、おずおずとそれに係わらざるを得なくなってからも、なかなか馴染めなかった。

 ほんの数行で済む簡単な連絡メールですら、文字通り何時間もかけて推敲し、あまりにも読み返しすぎて訳がわからなくなるので、数日間、塩漬けしてから、もう一度読み直すなどしていたのである。そうやって途方もない時間をかけ、ようやく送信する、という有様では、まともなコミュニケーションなど取れるわけがない。

 ましてやネットに書き込みをするなどという恐ろしい所業は、想像することすらできなかった。

 そんな私が、気がついたら当サイトで「マンガのスコア」なる連載まで始めて、膨大な文章を書き散らしている有様である。

 いったい何が起こったのか。

 

 原因はハッキリしている。編集学校のせいである。

 2008年の秋、恐る恐るこの学校の門を叩いたのが全ての始まりだった。

 数日おきに繰り出されるお題に回答するのに、いちいち逡巡しているヒマはない。とにかく文章を仕上げてから送信ボタンを押すまでの、ためらいの時間がどんどん短くなっていくのが自分でもわかった。気がつくと、誰よりもたくさん書き込み、聞かれてもいないことまでしゃべりまくる、ちょっとイタイやつになっていた。

 十人ぐらいのクローズドなサークルだったのもよかったのだと思う。これはちょうど「苗代」のようなものだ。

 日本では昔から稲作は直播きでなく、苗代を作った。小さく短冊形に区切った一角に種籾を播き、大事に育てた後、足腰が丈夫になったところで、あらためて田植えをする。

 苗代は、いわば仮の「シロ」である。初期条件を減らして、身軽な状態で、とりあえず何かを動かしてみる。これがいいのである。

 いきなりデカいことをやろうとしても上手くいかない。

『描かない漫画家』(えりちん)の器根田刃先生のように、妄想の世界は、いつまで経っても現実に着地しないのである。

 

(えりちん『描かないマンガ家』白泉社)

1Pもマンガを描いたことがないのに

心はレジェンド級の大巨匠となっている

器根田刃(←自分で考えたペンネーム)先生

 

 一方、『これ描いて死ね』(とよ田みのる)の主人公、安海相は、マンガの描き方など、まるで知らないのだが、とりあえず数ページ描いて、ホチキスで綴じ、一冊100円で即売会に出す。当然、まったく売れない。しかし、そこから彼女の苦しくも楽しい「まんが道」が始まるのである。

 

(とよ田みのる『これ描いて死ね』小学館)

 

 とにかく、小さな場所で、ちょっと小当たりに当たってみる。

 イシス編集学校の場合、最初のお題は(一見すると)とても簡単なものだった。これぐらいなら、手早く書いて送信しても大丈夫そうな気がした。送信すると、すぐ指南が返ってくる。ときどき不足気味の回答を書いてしまったときも、やんわりとヒントのようなものをくれ、筋道をつけてくれる。

 本番のような、シミュレーションのような、曖昧な感じ。それでも一人でやっているのとは違う。「少数なれど熟したり」なのだ。

「守」→「破」→「離」というシステムは、とてもよくできていて、気がつくと、とんでもないところまで連れて行かれてしまっていた。

 2020年からは当サイトで「マンガのスコア」という連載を持った。自分一人では、とうていやろうとは思わない、想像すらできないほどの大プロジェクトに巻き込まれていた。

 編集学校に出会っていなければ、これらのことは全て起こっていなかった。

 

 別の世界線での私は、今でも「ボクは文章が書けない」という思い込みのまま、かたくなにネット世界からは距離を取り、シーラカンスのような暮らしを続けているのだろうか。

 そっちの世界もちょっと覗いてみたい気がするが…。

 

オマケマンガ

 

オマケのオマケ

 

アイキャッチ画像:いがらしみきお『かむろば村へ』①小学館

 

 

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  • 堀江純一

    編集的先達:永井均。十離で典離を受賞。近大DONDENでは、徹底した網羅力を活かし、Legendトピアを担当した。かつてマンガ家を目指していたこともある経歴の持主。画力を活かした輪読座の図象では周囲を瞠目させている。

コメント

1~3件/3件

山田細香

2025-06-10

 この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
 建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

山田細香

2025-06-10

 藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。

堀江純一

2025-06-06

音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。