べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その八(番外編)

2025/03/06(木)22:07
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 光を当てることが、必ずしも解放につながるわけではない。見えなかったものが可視化されることで、新たな価値が生まれる一方、それは何者かを縛り、軋轢を生み、そして支配の形を変えていく。可視化された情報は、時に秩序を揺るがし、新たな構造を生み出す力を持つのだ。

 大河ドラマを遊び尽くそう、歴史が生んだドラマから、さらに新しい物語を生み出そう。そんな心意気の多読アレゴリアのクラブ「大河ばっか!」を率いるナビゲーターの筆司(ひつじ、と読みます)の宮前鉄也と相部礼子がめぇめぇと今週のみどころをお届けするこの連載。第八回についてはまだまだ語りたい。番外編として続きをお届けします。

 


 

駿河屋市右衛門 vs. 鶴屋喜右衛門——情報を巡る支配とシステムの暴力

 前回は瀬川に焦点を当て、遊女たちが直面する「個人の感情と疎外」の問題を掘り下げました。一方で、情報流通の影響は個人にとどまらず、社会の権力関係にも深く関わります。今回は、重三郎の細見が引き起こした権力闘争に注目し、吉原というシステムの中で情報がどのように流通し、それが権力の構造にどのような影響を及ぼしたのかを考察していきます。

 

 重三郎が手掛けた吉原細見『籬乃花』は、従来の倍以上の売れ行きを記録し、吉原内外で話題となりました。しかし、その成功の陰で、かつて偽本の罪で捕らえられた鱗形屋孫兵衛が、新たな青本『金々先生栄花夢』を発刊し、見事に復活を遂げます。彼は地本問屋・鶴屋喜右衛門らと手を組み、重三郎を排除しようと画策しました。地本問屋の仲間たちは、かつて交わした「細見の売り上げが倍になれば地本問屋に加わる」という約束をなかったことにし、吉原の主人たちに通達します。

 出版を通じて新たな地位を築こうとしていた重三郎にとって、これは重大な打撃でした。加えて、さらに衝撃的だったのは、鶴屋が「ここにいない仲間が話していたことですが…」と前置きしながら、「吉原の者たちは卑しい外道であり、市中にかかわらないでもらいたい」と言い放ったことでした。これを聞いた重三郎の養父・駿河屋市右衛門(忘八衆の一人)は激昂し、鶴屋を座敷から引き摺り出すと、そのまま階段から突き落とし、地本問屋の吉原への出入りを禁じると宣言しました。

 

 一見すると、重三郎は不条理な社会的暴力の被害者であり、駿河屋は彼を守ったかのように見えます。しかし、忘八衆の行動もまた、吉原というシステムを維持するためのものにほかなりません。駿河屋が守ろうとしたのは、遊女たちの尊厳ではなく、吉原という商業共同体そのものでした。彼は吉原が幕府公認の「独立した世界」であることを主張し、外部からの支配を拒絶しました。ですが、その自治の確立が本当に遊女たちの自由や幸福につながるのかについては、疑問が残ります。

 

遊女たちの自由とシステムの構造

 遊女たちは生き抜くために「自由」を手放さざるを得ませんでした。吉原に足を踏み入れるのは彼女たちの意思ではなく、経済的・社会的な制約の中で選ばされた道でした。その中で、「名花」として名を上げることが、自己を確立する唯一の手段となることもありました。

 身請けされることは、限限られた選択肢の中で「成功」とみなされるひとつの形であり、望んでその道を選ぶ者もいたかもしれません。しかし、それすらも、遊女がシステムの枠内で生きることを強いられる現実の一側面に過ぎません。

 駿河屋が守ろうとしたのは、遊女たちの個人としての尊厳ではなく、吉原というシステムそのものでした。そして、その枠組みの中で、遊女たちは「資産」として扱われ、重三郎もまた「その資産を効果的に宣伝する役割」として位置付けられていました。彼が志向した情報流通の自由化もまた、結局は吉原というシステムの一部として機能し、最終的には遊女たちの生き方をより強く縛るものへと変わっていくのです。

 

階段落としの象徴性

 階段落としは、支配者と被支配者の交代、権力の流動性、そして吉原のシステムの変遷を示す重要なモチーフです。興味深いのは、落とす側と落とされる側が入れ替わることで、単なる個人同士の対立ではなく、システムの維持や変革における権力の転覆を象徴している点です。

 

 最初に駿河屋が重三郎を落としたとき、それは「吉原の掟に従え」という強いメッセージでした。次に、重三郎が(意図せず)駿河屋を落とした場面では、駿河屋の権威が揺らぎ、重三郎が新たな情報流通の枠組みを築こうとする変化が示されました。そして、今回の駿河屋による鶴屋の階段落としでは、忘八衆が外部の介入を拒み、吉原の支配を維持しようとする意志が強調されています。

 つまり、階段落としは単なる制裁ではなく、支配の移行や権力闘争の縮図として機能しているのです。落とされる者がいるということは、その地位が揺らいでいることを意味し、一方で落とす側に回る者は、新たな権力を掌握しようとする動きを可視化します。この入れ替わりの連鎖は、吉原という社会が固定された支配構造ではなく、絶えず変化し続ける動的なものであることを象徴しているのです。

 

 さらに、この階段落としは、ドラマ自体のメタ的な仕掛けとしても機能しています。作中で描かれる情報の可視化が新たな枠組みを生み出す流れを、視覚的に示しているのです。階段落としによって、誰が権力を掌握し、誰が排除されるのかが一目でわかるようになっており、これは「権力関係」という情報が可視化されることで、新たな「権力関係(枠組み)」が生まれる様子を視覚的に表現しています。このように、階段落としは物語の象徴的な要素でありながら、同時にドラマ全体の主題を表現するためのメタファーとしても機能しているのです。

 

情報の可視化と権力の変遷

 江戸時代の吉原でも、現代のデジタル社会でも、情報の流通は単なる個人の自由ではなく、権力の変遷と密接に結びついています。可視化された情報が、既存の秩序を揺るがし、新たな枠組みを生む。吉原の細見を巡る争いは、この普遍的な構造を象徴的に描いています。現代においても、メディアやデジタルプラットフォームが情報を管理することで、新たな支配構造を生み出しているのではないでしょうか。情報の可視化が生む影響をより広い視点で捉え直すことが、私たちが情報社会を生きるうえで不可欠なのかもしれません。

 


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コメント

1~3件/3件

山田細香

2025-06-10

 この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
 建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

山田細香

2025-06-10

 藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。

堀江純一

2025-06-06

音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。