花伝式部抄 ::第5段::「わからない」のグラデーション

2023/06/13(火)12:04
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花伝式部抄 _05

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 何かを「学ぶ」ことは「未知」と出会うプロセスでもあります。

 

 知らないことを知っていく過程では、知ろうとすればするほど「たくさんの未知」を知ることになります。そのとき、私たちは未知との遭遇を「わからなさ」として体験します。

 「わからなさ」は「わかりたさ」の母ですが、厄介なことに「わかりたくなさ」の父でもあります。わかりたいけど怖い、怖いけどわかりたい。あるいは、むしろ「わかりたいからこそ怖い、怖いからこそわかりたい」のかも知れません。

 

 畢竟、「わからない」は好奇心怖れ二点分岐されながらアンビバレントなグラデーションを描きます。それはまるで不規則に反転する重力と斥力のように「わたし」の境界を動揺させ、不足から編集を生み、新たな文脈を獲得する冒険へと誘なうのです。

 

「わからない」の物語 

 

「わからない」がわからない
「わからない」に迷っている
「わからない」に倦んでいる

 

「わからない」が拗れている

「わからない」に巻かれている

「わからない」に眩んでいる

 

「わからない」を観察している

「わからない」を感じている

「わからない」を問うている

 

「わからない」に挑んでいる

「わからない」が満ちている

「わからない」に委ねている

 

「わかる」が兆している
「わかる」に触れている
「わかる」が爆ぜている

 

「わからない」が爆ぜている
「わからない」に触れている
「わからない」が兆している

 

「わかる」に委ねている

「わかる」が満ちている
「わかる」に挑んでいる

 

「わかる」を問うている

「わかる」を感じている
「わかる」を観察している

 

「わかる」に眩んでいる

「わかる」に巻かれている

「わかる」が拗れている

 

「わかる」に倦んでいる
「わかる」に迷っている
「わかる」がわからない

D.C.(はじめに戻る)

 

 「わからないの物語」の主人公は、「わからない」の原郷から旅立って、様々な通過儀礼を経て「わかる」を体験した後、再び「わからない」へ帰還します。この物語は、何度繰り返しても「わかる」で終わることがありません。何故なら「わかる」を体験する者はワタシとセカイの関係性を更新するからです。つまり「わかる」は必ず新たな未知を連れてやってくるのです。

 

 「未知」は、夜道で見上げる月のように、気づけばいつもそこにあって、近づきもせず遠ざかりもせず、見えるとしても触れられず、感じられるとしても体験することができません。ありありと有るけれど、しんしんと隔てられている。その距離や時間を測ることも出来るし、無視することも出来てしまう。未知は何かを予感させる存在でもありますが、孤独さを悟す存在でもあるでしょう。

 

 さて、この寓話には隠されたキーワードがあります。

 「わかる」と「わからない」の間にあるもの。月と「わたし」の間にあるもの。hereとthereの間にあるもの。B(ベース)(ターゲット)の間にあって(プロフィール)を媒介するもの。それを私はレベッカ・ソルニットに肖って「隔たり」と呼んでみたいと思っています。

 

失われているときにだけ手にすることのできるものがある。

そして、ただ遠くにあるというだけでは失われないものがある。

 

それは(…)はるかな隔たりの向こうの、途方もない広がりだ。

レベッカ・ソルニット迷うことについて』左右社 より)

 

 私たちは「隔たり」をある時ふいに感知する。それによって生じる測度感覚に導かれて「わからないの物語」が運ばれて行く。そうだとしたら「隔たり」こそが世界と他者と自己をまたぐ「別様の可能性にアフォーダンスを与えているわけですから、「隔たり」を安易に埋めようとすべきではありません。

 ソルニットは「隔たり」について「贈り物のような思いがけなさ」と書いています。同じことを松岡校長は「どこかそれたところから猛烈なスピードでやってきて、われわれを貫き、またどこかへ去ろうとしているもの」『フラジャイル』筑摩書房と書いています。

 

 私たちにとって何かを「学ぶ」ことを動機づけているのは、多くの場合「役に立つ自分になりたい」と思うだろうと思います。けれど、だからこそ、未知を歓迎し、隔たりに留まって、「わからない」に没頭する能力を育んで行きたいと願うのです。

 

『迷うことについて』

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花伝式部抄(39花篇)

 ::序段::  咲く花の装い
 ::第1段:: 方法日本の技と能
 ::第2段::「エディティング・モデル」考
 ::第3段:: AI師範代は編集的自由の夢を見るか
 ::第4段:: スコア、スコア、スコア
 ::第5段::「わからない」のグラデーション
 ::第6段:: ネガティブケイパビリティのための編集工学的アプローチ
 ::第7段:: 美意識としての編集的世界観
 ::第8段:: 半開きの「わたし」
 ::第9段::「わたし」をめぐる冒険

スコアリング篇)>>

  • 深谷もと佳

    編集的先達:五十嵐郁雄。自作物語で語り部ライブ、ブラonブラウスの魅せブラ・ブラ。レディー・モトカは破天荒な無頼派にみえて情に厚い。編集工学を体現する世界唯一の美容師。クリパルのヨギーニ。

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コメント

1~3件/3件

山田細香

2025-06-10

 この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
 建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

山田細香

2025-06-10

 藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。

堀江純一

2025-06-06

音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。