起承転結に絶句する OTASIS-2

2019/09/22(日)23:40
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 文章を組み立てるための基本の型といえば、イシス編集学校では「いじりみよ」。でも世の中では、文章の型といえばまだまだ「起承転結」が圧倒的に優勢だろう。日本人でこの四字熟語を知らない人はほとんどいないはずだと思う。学校で「起承転結」に沿って作文するように指導を受けたという人もかなり多いようだ(注:私の身辺調べ)。

 

 私自身は長らく「起承転結」が苦手だった。「起・承」を受けていよいよ「結」にいく手前で、なぜそれまでの流れやモードや気分を変えてまでして、わざわざ「転」しなければならないのか、いまひとつ納得できなかったのだ。納得できるほどの説明にも出会えていないし、無理に「転」をしようとして妙にあざとい文章をひねりだしてしまった経験も数多い。

 

 そもそも「起承転結」は漢詩の五言絶句とか七言絶句というような四行からなる絶句を効果的に構成するための型だった。それがいつしか、小説や戯曲などを構成する基本の「型」として援用されるようになり、一般的な文章や子どもの作文にも有効な「型」として推奨されていった。つまり「起承転結」は、はじめから文章用の「型」として生み出されたものではなく、たまたま使い勝手がよかったか何かの理由で、本来の用途からいささかはずれて文章にも使おうとする人が増えていったというものらしいのだ。

 

 本家本元の漢詩やそれに匹敵するような短詩はもちろんのこと、4コマ漫画とか星新一のショートショートのように、「起承転結」が有効にはたらくタイプの文章や編集や文芸があるということは、充分わかるしおおいに納得もできる。でも「起承転結」はどんな作文にも使える万能薬のようなものではないし、「起承転結」ばかりが文章構成のデファクトスタンダードというわけでもないだろう。

 

 では他にどんな文章の型があるのか。私が作文問題で悩んだときに必ず頼りにしてきた『高校生のための文章読本』(ちくま学芸文庫)には、文章の段落構成には「古来さまざまな形があるから、それらも参考にしよう」とあって、起承転結以外にも、論説で推奨される「序論・本論・結論」の3段階構成を挙げ、さらに日本の舞楽や能における「序破急」、西洋音楽でいう「A→A’→B→A’」のリード形式、「導入部→提示部→展開部→再現部→終結部」のソナタ形式までをあげている。さすがに“文章読本界の良心”との誉れ高い『高校生のための文章読本』、すばらしい目配りだ。

 

 でもその一方、本書にして文章構成のための「型」のヒントに、日本の芸能や西洋音楽の形式を挙げなければならなかったというゆゆしき事態にも驚かざるを得ない。それほどまでに、文章構成のために有効な「型」には、たいしたものがないということではないのか(それにくらべて西洋音楽の、とくにソナタ形式のなんと精妙なこと!)。これでは、世に伝わる文章構成のための「型」があまりにも乏しく貧相なせいで、四段階もの構造があってかつレトリカルな小技を効かせやすく、漢字文化圏としての沽券も守れそうな「起承転結」ばかりが、やたらに文章指導の世界でもてはやされてきてしまったのかもしれないと、邪推したくもなるではないか。

 

 いずれにしても、松岡正剛のもとで、文章を書くことはひたすらイメージと言葉を「連結」していくことだと叩き込まれ、いまなお「連結」に四苦八苦している私には、「転結」に趣向を凝らすような余裕はまだ持てそうにない。それに、この文章連結力をモノにしていくためにも、まずマスターするべきは松岡正剛考案の「いじりみよ」なのである。

 

 ……じつはこの「いじりみよ」こそは、文章構成の「型」のデファクトスダンダードになるべきだと、私は声を大にして言いたいのだが、当分は編集学校内でこっそり秘伝されていくことになるのだろう。

  • 太田香保

    編集的先達:レナード・バーンスタイン。慶応大学司書からいまや松岡正剛のビブリオテカールに。事務所にピアノを持ちこみ、楽譜を通してのインタースコア実践にいとまがない。離学衆全てが直立不動になる絶対的な総匠。

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コメント

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山田細香

2025-06-10

 この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
 建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

山田細香

2025-06-10

 藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。

堀江純一

2025-06-06

音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。