この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

2024年1月21日、メディア美学者・武邑光裕氏による52[守]特別講義が迫ってきた。昨年、三夜にわたって開催された「10周年記念 武邑塾2023×DOMMUNE」の記憶はまだ新しい。時代、テクノロジーの先端を走り続ける武邑氏による近未来の預言書。「武邑光裕を知る・読む・考える」第3弾は、『プライバシー・パラドックス データ監視社会と「わたし」の再発明』をお届けする。
現代社会の様相が、近未来の全体主義国家による監視社会の暴走を描いた作家ジョージ・オーウェルのSF小説『1984』と酷似してるように感じる。『1984』では思想警察が異端を排除し、統制を維持するために言論を統一しようとした。現代社会のネット空間においても、正義の名の下に、異なる意見を弾圧する動きが現れている。善意から出発した正義が過剰にエスカレートし、良かれとされるべき行為が暴走する。言論の自由とは名ばかりに、目に見えない正解を強いる同調圧力がネット空間を蔓延している。これにより全体主義の流れが知らず知らずのうちに加速を始める。まるでインターネットは「パノプティコン」が聳え立っているかのような相互監視システムの役目を持つ。
ネット環境さえ整っていれば、世界中どこからでも無料で電話が使えて、複数名でのテレビ電話もできる時代を生きている。ほんの十数年前には、誰かの妄言だった話が、もはや遠い過去の話。ただ、その通話内容、やり取りされたメッセージや写真、動画のデータの行く末を考えたことはあるだろうか。それを保存するサーバー自体が国内に無いという事実もある。利便性を享受することと引き換えに、私たちはスマホやそのアプリが、私たちのプライバシーを吸い取って、企業が莫大な広告収入を得ていることや、データとなって流動する自身のプライバシーの行方にはあまりにも無関心なのである。
そのことを一早く予見していたメディア美学者の武邑光裕さんは、本書『プライバシー・パラドックス データ監視社会と「わたし」の再発明』の中で、GAFA、スマートシティ、感染追跡、監視資本主義、デジタルツイン、AIなどの事象を列挙しながら、データ時代におけるプライバシーとはなにかを問う。個人とはなにか? 自由とはなにか? そして、21世紀に民主主義は可能なのか? 武邑さんが突きつけるのは、この先避けては通れない、考え続けなくてはならない無数の問いだ。問いは言語化されて、初めて認識としての価値を持つ。問い以前には問題として顕在意識にすらあがらないのである。
目に見える家のような物理的空間としてのプライバシーの侵害には、人はすぐさま反応するが、サイバースペースではこの理解とまったく異なってくる。SNSに何気無く投稿した子どもの写真を、誰が見ているのかということをそこまで意識しない。つまりインターネットによって、プライバシーを定義する「空間の概念」と「自己決定権」を失ってしまったといえる。
聖書における最初の物語は、創造主に対する人間の不安、神を盲目的に信じることができない内面の葛藤を示していた。神への疑いは、楽園からの追放として罰せられたが、実は「疑うことの力=知恵の力」が強調されていたのである。懐疑と確信の間で揺れる「神」を通して、人間の歴史は進むことになる。つまり「問い」そのものを編集する力が鍵になる。普段通り過ぎてしまう景色に一度「注意のカーソル」を当ててみる。編集稽古とは、この「問い」という思考のフレームワークを「型」として学ぶことにある。全体主義に抵抗する唯一の方法。学ぶことには問う力がセットだということを忘れてはいけない。「問い」にこそ知性の働きの中心があるはずだ。
アイキャッチ/阿久津健(52[守]師範)
イシス編集学校第52期[守]特別講義●武邑光裕の編集宣言
●日時:2024年1月21日(日)14:00~17:00
●ご参加方法:zoom
●ご参加費:3,500円(税別)*52[守]受講生は無料
●申込先:https://shop.eel.co.jp/products/detail/622
●お問合せ先:es_event@eel.co.jp
◆武邑光裕を知る・読む・考えるシリーズ◆
小野泰秀
編集的先達:ゲーリー・スナイダー。ファッション、工芸、音楽、映画、写真、マンガと幅広い慧眼をもつジュエリーデザイナーにして骨董商。所持金80ドルでオーストラリアに上陸し、生活を始めた行動力の持ち主。ブレない自分軸を立てつつ、ただいま編集力探究に邁進中。
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2025-06-10
この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
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2025-06-10
藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。
2025-06-06
音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。