この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

8月より配信をスタートした、「編集工学研究所Newsletter」!われらが社長、安藤昭子のコラム連載「連編記」の第二回をお届けに参りました。
「連編記」では毎回、一文字の漢字を設定。この一文字から連想される風景を、編集工学研究所と時々刻々の話題を重ねて編んでいきます。
今回の漢字は、「感」。
そう、感門之盟に肖った一編です。
「連編記」配達人の山本は、ただいま長崎県の自宅と豪徳寺の編工研のあいだを行ったり来たりする二拠点生活中です。
ついさっき、夕暮れ時のフライトで長崎に戻ってきました。
沈みながら赤みを増すまんまる夕日を、雲海の彼方に見送って、大村湾に浮かぶ小さな空港に着陸。
荷物を受け取って外に出ると、海が黒い鏡のように光っていました。そうか、明日は仲秋の名月。
いま月と太陽のあいだにいるんだなぁと、なんだかドキドキするような「感じ」が湧き上がりました。
卒門、突破、放伝、感門……という寿ぎの場を経て、皆さんはいま、どんな感と共にあるでしょうか。
「連編記」vol.2「感」、どうぞ、お楽しみください。
(ニュースレターへのご登録窓口は、近日中に編集工学研究所コーポレートサイトにオープン予定です。)
(「連編記」配達人:山本春奈)
日本は「二」にはじまる
「日本の数は、『二』が最初。その片割れが『一』になる。」
前回ご紹介した「AIDA OP」のセッションで、座長の松岡正剛が「間(あいだ)」を捉えるひとつの見方として添えた話です。「一」を最小単位にするのではなく、まず「二」があって、それが割れることで「一」が生じる。ものの道理を「ことわり」と言いますが、然るべきものはことが割れたところに生ずる、ということだそうです。
この「二」を始原とする一対感覚は、日本の思想や方法の中にも折々表出してきました。三浦梅園の「反観合一」、清沢満之の「二項同体」、西田幾多郎の「主客合一」ーー矛盾と異質性を内包したまま、ひとつの束ねられた可能性を可能性のままに留め置く。西洋的合理性にすっかり馴染んだ私たちにはなかなか飲み込みづらい感覚ではありますが、身体はどこかで知っているような、理解は追いつかないのに腑に落ちるような、不思議な気持ちになるお話でした。
「AIDA OP」(2023年8月8日開催)にて。建築家・磯崎新氏と松岡正剛等が手掛けた「MA Space-Time in Japan」[1978年/パリ](右上)と「間―20年後の帰還」展[2000年/東京](左上)のパンフレット。
数学者の岡潔さんは、自然数の「一」を知ることについてこう記しています。
“数学は一とは何かを全く知らないのである。ここは全然不問に付している。
数学が取り扱うのは、次の問題から向こうである。”
『夜雨の声』岡潔著・山折哲雄編
この「一」が何たるかを知るのが、「情緒」なのだと言います。「情緒」は仏教で言えば「無差別智」、「心のふるさとがなつかしい」という情操の中でつかみうる、言葉や意識で自覚しえない智力のことだそうです。子どもに計算を教えればある程度のことはできるようになるけれど、情緒を働かせないままに計算だけができるようになっても、自分が何をしたのかはわからずじまいになる、と。
「忽然とわかる」ということ
先日、庭先で育ったキュウリをかじった時、「ああキュウリをいただいているなあ」というやけに鮮やかな心持ちがして、ふとこの自然数「一」の話を思い出しました。キュウリをキュウリそのものとして感じることと、食べ物として味わうこととは、どうも回路が違うのではないか。思考においてもこれは同じで、「一」が何かを知らぬまま、その先の計算だけに長けていく活動のなんと多いことか。キュウリをかじりながら、そんなことを自戒したのでした。
人類学者のグレゴリー・ベイトソンは、言語や思考に還元できない情報を「感じ(フィーリング)」として扱い、この「感じ」こそが連環的な情報システムの間をつなぐものであるとしました。「生きとし生けるものすべてを結び合わせるパターン」越しに世界を見ようとしたベイトソンは、「つながりあうパターン」というものは精神(マインド)によってしか読み取れないものなのだと言います。岡潔の言う「情緒のはたらき」に通じます。
“生物世界と人間世界との統一感、世界をあまねく満たす美に包まれてみんな結ばれ合っているのだという安らかな感情を、ほとんどの人間は失ってしまっている。 ”
『精神と自然 生きた世界の認識論』グレゴリー・ベイトソン著・佐藤良明訳
情緒によって忽然と「一」を知るような、世界のつながりを心で感得するような、そうした「感」をめぐる知性が、AI進化のニュース喧しい現代において、ますます疎かにできないものになるように思います。
感システムとしての「ISIS」
松岡正剛が校長を務める「イシス編集学校」では、この「感」を媒介に学び合う仕組みが、2000年の開校以来動き続けています。週にいくつかの「お題」がインターネット上の「教室」に出題され、「学衆」としてそれに答えると「師範代」が「指南」を返してくれる。この一連のプロセスは「問感応答返(もんかんおうとうへん)」と呼ばれ、「問答」のあいだに動く「感」をこそ編集の対象にするプロセスとして共有されています。
「問」われて「感」じて「応」じるあいだ、「答」は無数の可能性の中にあります。いざ選び取って答えたら、それで終わらせずにどこかに「返」す。自分に、相手に、世の中に、更に次の可能性を乗せて返します。「問感応答返」は、自分と相手の想像力の可能性を増やす流れであり、学習する集団に変容をもたらすプロトコルでもあります。そこのエンジンを一手に担うのが「師範代」の存在です。
この週末、講座を終えた学衆や師範代を寿ぐ「感門之盟」と呼ばれる催しがありました。 毎回何かしらのフラッグを掲げますが、今回のテーマは「EDIT DEMONSTRATION」。「デモンストレーション」は「デ・モンストレーション」、本来単なるプレゼンやアピールではなく、「内なるモンスターを表に出す」行為なのだと、校長・松岡正剛は言います。「モンスター」とは、日頃は伏せられた、うまく語り得ない、名付けようのない何かのことです。そうした封印された「感」を私たちは日々抱えていて、その違和感や異質性こそが、やがてほとばしり出る才能の火種にもなりえます。
イシス編集学校・第82回感門之盟「EDIT DEMONSTRATION」。この日のために仕立てられるタブロイド誌の表紙(執筆・編集:イシス編集学校・タブロイド編集部/デザイン:編集工学研究所デザイナー・穂積晴明)
この類の「感」は、予め用意しておけるものではなく、差し掛かったところで初めて発露してくるものです。何らかの閾値を超えた瞬間にはじめて何かの意味を帯びるような、いたって微弱な「感」であるほど、「返」となって現れるモンスターが異彩を放つ。イシス編集学校が「ISIS(Interactive System of Interscores)」というひとつの「システム」であろうとするのは、「つながり合う世界」をアクチュアルに体感でき、その連環の中でいきいきとした差し掛かりを感じ合える、ひとつの世界モデルを体現するためであろうと私は理解しています。
第82回感門之盟にて。イシス編集学校の師範で病理医の小倉加奈子さん(左)と編集工学研究所のデザイナー穂積晴明くん(右)。赤鬼・青鬼となって、松岡正剛校長のモンスターを引き出そうとする「校長講話」。
内なる未詳の「感」
翻って冒頭の「二」ですが、日本のはじまりが「二」にあるのは、そこにはなから最小の世界を抱えようとしたからではないかなと、微細な「感」がそこかしこで交換される感門之盟に立ち会いながら考えていました。全知全能の唯一神が創り給うた自然に相対するのではなく、八百万の神々を抱く自然の一部であろうとした日本人の、極小世界モデルが「二」にあったのではないかと。
「二」はそもそもが「間」を含み、コンティンジェントな(別様の可能性を内包する)ものであり、何が姿を表すかわからない最小単位です。その未詳性が、山川草木に魂を見出してきた日本人の自然感や身体感覚には、すべてのおおもととしてしっくりきたのではないでしょうか。外からやってくる「確からしい」情報に溺れそうになる昨今、なにかの間にしか生じ得ない「内なる未詳の感」こそが、私たちを先に進める知性の命綱になるようにも思います。ここにもまた、日本の始原に学ぶことが多くありそうです。
安藤昭子(編集工学研究所 代表取締役社長)
◆千夜千冊ご参考:
安藤昭子
編集工学研究所 代表取締役社長
東京生まれ東京育ち。新卒で出版社に就職。書籍編集に従事するも、インターネット黎明期の気配に惹かれて夜ごとシステム部に入り浸る。javaを勉強し、Eラーニング・プログラムを開発。会社から編集者かエンジニアか選ぶよう言われ「どっちも」と言って叱られる。程なくして松岡正剛を知り、自分の関心が「情報を編集すること」にあったと知る。イシス編集学校に入門、守破離のコースを経て2010年に編集工学研究所に入社。2021年に代表取締役社長に就任。企業・学校・地域など、「編集工学」を多岐にわたる領域に実装・提供している。Hyper-Editing Platform[AIDA]プロデューサー、丸善雄松堂取締役。著作に『才能をひらく編集工学』、『探究型読書』。新芽、才能、兆し、出会いなど、なんであれ「芽吹き」に目がない。どこにでも自転車で行く。
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2025-06-10
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2025-06-10
藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。
2025-06-06
音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。