この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

こんにちは。編集工学研究所です。
「編集工学研究所 Newsletter」は、編集工学研究所を取り巻くさまざまな話題を配信するお便りです。代表・安藤昭子のコラム「連編記」では、一文字の漢字から連想される風景を、編集工学研究所と時々刻々の話題を重ねて編んでいきます。
2025/5/21
なんとなく上の空で集中力を欠いている人に、「心ここにあらずだね」などと言うことがあります。 さてこのとき、心はどこへ行ってしまっているのでしょう。 そもそも、「ここ」に心があると私たちが信じている、その「ここ」とは、いったいどこなのでしょうか。
「心を閉ざす」「心をひらく」「心を通わせる」「心を奪われる」「心を入れ替える」──。日々の言葉のなかで、心はあたりまえのように囲われ、持ち出され、操作されるものとして扱われています。 身体という容れ物の中に、それぞれが一つずつ抱えているもの。 現代に生きる私たちは、そんなふうに心をとらえています。
昔々、人類がまだ文字を持たなかったころ、心は風でした。古代ギリシア、ホメロスの時代、『イリアス』や『オデュッセイア』に描かれる人びとの心は「プシュケー(psyche)」と呼ばれ、 意志や感情というよりも、むしろ「息」や「魂」や「命」に近いものでした。
若き哲学者・下西風澄さんによる『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』は、 この「心」という存在がたどってきた道筋を、それこそ風のように駆け抜けながら描き出してみせました。古代ギリシアから現代のAIにいたるまで、人類はどんな道筋をたどって「心」と格闘してきたのか。数々の哲人が切り開いた「心」の風景が、推理小説のごとき謎解きとともにリプレイされる、壮大な精神の叙事詩です。本書の緻密にして颯爽とした文章にぜひ出会っていただきたいですが、ここでは下西さんが追った「心」の道筋だけ、駆け足でたどってみたいと思います。
『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』下西風澄著(文藝春秋)
ホメロスの時代から200年ほどがたった紀元前5世紀、ソクラテスとプラトンの登場によって、心は「外から吹き込まれる風」から、「内面に宿るもの」へと転換されました。この「人間の内面に宿る心」という発明は、後の西洋哲学の基盤となり、多くの哲人たちがその所在をめぐって果敢な提案を重ねてきました。
精神と身体を分離し「考える我」という基盤から世界を創造したデカルト、その神なき世界の寂寥に耐えかね「人間はこの世で最も弱い葦」であるとしたパスカル、心を構造として捉え直し感覚を秩序づけるアーキテクチャへと組み替えたカント──。
その流れの中で出来上がっていった「身体に閉じ込められた心」という像は、20世紀になると科学や技術と結びつき、現代の「自己」を中心とした世界像を形作る前提となっていきます。
1950年代以降に台頭した「認知科学」は、心を記号処理のシステムとしてモデル化し、 「心の機械化」は加速していきました。ところがその果てに立ち現れたのが、“Ghost in the Machine(機械の中の幽霊)”という逆説です。心を計算しようとすればするほど、計算では捉えきれない意識の気配が、幽霊のように浮かび上がってくる。
ホメロスの時代に吹いていた霊的な風が、徹底的に解体され、要素に分解され、構造化される過程で、「主観」という「ゴースト(霊)」が再浮上してしまう。そうした心の正体を、現代の科学技術はながらく持て余してきました。
一方で、心を「個体に一つ割り当てられた所有物」とする見方を、別のルートから乗り越えようとした人々もいます。カントが残した「主観」をめぐる課題に対し、流れる現象として意識を捉えなおしたフッサール、人間は世界の内に投げ出された存在であると見たハイデガー。心は、あらかじめ個の内にあるのではなく、関係のなかで生成されるものではないか——。
この視点を、生命の観点から本格的に展開したのが、チリ生まれの生物学者フランシスコ・ヴァレラでした。ヴァレラの提唱する「エナクティブ・アプローチ(enactive approach)」では、心は身体と環境の相互作用のなかで生まれる「出来事」として捉えられます。「エナクティブ(enactive)」は「行為先行の」といった意味で、所与の心が所与の世界を理解しているのではなく、行為によって初めて主体と環境のあいだに世界が生成される、という見方です。
ヴァレラはまた、主体は境界面を通じて環境と絶えず情報を交換していると見ました。こうした境界のはたらきについて、ヴァレラは仏教、とくに「縁起」の思想との強い親和性を見出していました。縁起とは、すべての存在が単独で成り立つのではなく、関係のなかで互いに依存し合い生起している。心は、世界との関係のなかで、ゆらぎながら生成されていく境界の現象であるという見方です。
そこから下西さんは、身体に心を結び直そうとしたメルロ=ポンティを最終地点として、西洋哲学の辿った道筋にいったんの区切りをおきます。
このヴァレラからメルロ=ポンティへと抜けて出る下西さんの論を追いながら、生命がその原初に用意した「膜」の存在のことを思っていました。
この世界に生命というシステムが誕生したとき、そのはじまりにあった「情報」は膜によって内と外を分け、自己を維持する仕組みを獲得しました。以降、バクテリアから植物まで、昆虫からヒトまで、生物はみな例外なく、細胞という最小単位から構成されることになります。この細胞をかたちづくる外枠の役割をしているのが「生体膜」です。
生体膜は「脂質二重層」という構造でできていて、分子の水に馴染みやすい部分を水と触れる外側に、油に馴染みやすい部分を隠すように内側に配し、分子と分子が磁石のように引き合って結びついています。
その結びつきは非常にゆるやかで、柔らかく、簡単にかたちが変わり、またすぐにちぎれるという特徴があります。けれど同時に、復元も早く、他の分子や構造を柔軟に取り込むことができる。また「水は通すが、イオンは通さない」という選択的透過性があります。つまり、生体膜とは壊れやすさを前提とし、出入りさせるものを選り好みできる構造なのです。
このように生命は、「現状を強く保持する」という方法ではなく「ゆらぎながら弱さによって適応する」という戦略をとってきました。情報を完全に遮断するのでもなく、全面的に開放するのでもない、環境と共に生きるための相互浸透を許す膜の構造が、生物の進化を決定づけてきたといえます。
思えば日本文化には、いたるところでこうした膜的なインターフェイスが多用されてきました。のれん、すだれ、御簾、障子、庭先の関守石──。空間を完全に遮断せず、余白を残してちょっと区切る。気配の通り道を確保しながら、情報の出入りを繊細に設計してきました。文化の流通においてもまた、趣味や嗜好を追究する「数寄」の感覚が、膜のようなインターフェイスの役割を果たしてきたといえます。
松岡正剛は『日本数寄』のなかで、「数寄」とはなにかをこう語ります。
“数寄はもちろんスキである。「好き」でもあるが、隙間を透くことでもあった。一言でいえばスクリーニングのこと、透いて漉いて、鋤いて空いていくことである。そのうえで好いていく。”
──『日本数寄』松岡正剛
ここで言う「透く」は、「好み」や「美意識」を介した感性による取捨のはたらきです。何を通し、何を伏せ、何を残すのか。その判断こそが、日本的な知性や美の根幹にあります。スクリーニングする文化の膜構造によって、日本の編集力は極まっていきました。
編集工学研究所では、ブックサロンスペース「本楼(ほんろう)」を拠点としたリアル/オンラインハイブリッド型のイベントが頻繁に開催されます。その一切の演出と配信を手掛けるチームは「黒膜衆」と自らを名乗り、編集工学界隈でおこる文化の「膜」としての機能を体現しようとしています。事前からの場の演出企画にはじまって、現場のカメラ、スイッチャー、フロア、音響、照明──、会場となる「本楼」とオンラインを配信でつなぐ、全身黒づくめの黒膜衆たちが、毎度画面の向こうの参加者にここ一番の絵を届けてくれています。5~6台のカメラが押さえる画の、どこを見せてどこを伏せるか、何に光を当ててどこの情報を削ぐか、インカム越しにやりとりしながら、ネットの向こうの参加者に届ける場面を刻々と編集してくれています。
編集工学研究所の演出・配信チーム「黒膜衆(くろまくしゅう)」 イベント直前の演出を打ち合わせる衣笠純子、小森康仁、森本研二(左上)
5~6台のカメラが会場の微細な気配も捉える(右上)カメラからの画を刻々と選択するスイッチャー(左下)演出と狙いに応じて照明も表情を変える(右下)撮影:後藤由加里
Hyper-Editing Platform[AIDA]には、本楼への現地参加ではなく完全オンラインで受講される方も多くいますが、その独特な「没入感」についての感想をたびたびいただきます。おそらく、黒膜衆の「好み」「こだわり」によって演出され刻々と生成される配信映像が、現場にいる時の臨場感とはまた違った形での没入感となって画面越しの受講者に届くのでしょう。VRのような視覚情報を占有しての没入感ではなく、選択的透過性によって移り変わる文脈が観る人それぞれの想像力を触発し「いま、ここ」の体感へと視聴者を引き込む、そういった類の没入感なのだと思います。
下西風澄さんの『生成と消滅の精神史』は、西洋における「心」の変遷を丁寧に紐解いた後、第二部に入って一転、舞台を日本へ移します。
西洋哲学の最果てにあったその心の在り様、それはもしかすると東洋の日本における原初にあった心の模様と親しいものではないか。
『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』下西風澄
ヴァレラが仏教にヒントを得たように、西洋哲学は長い旅路の果てに東洋に理想を見たのではないか。彼らが到達した心のあり方を、東洋に生きる私たちははじめから持っていたのではないか──、下西さんはそうした仮説の下に、日本の心の変容を追っていきます。
「万葉集」から「古今和歌集」に向けての心の変化を辿った後、時代は一気に飛んで夏目漱石と近代的自我の問題に急転していきます。西洋が最果ての地に見た理想としての東洋・特に日本の心は、長らく歌や自然の中に溶け込んでいるものでした。それが明治時代の西洋化を経て、痛みながら自然から引き裂かれ、身体の内側へと取り込まれていきます。
近代以降、日本人は急速に「主体であること」を求められました。西洋が気の遠くなるような長い年月をかけて育ててきた「確固たる自己」というものを、日本人は明治以降のわずか数十年で手に入れようとしたのです。その苦しみの只中にいたのが、夏目漱石でした。
漱石の見立てによれば、20世紀とは「誰もがself-consciousness(自己意識)の病にかかる時代」です。意識はもはや自然へと開かれず、自我という殻に閉じ込められていく。「無為」という東洋的な悟りの境地を取り戻すには時すでに遅く、すべての心は「私」という主語の支配下に置かれていきました。
その「自己という殻」やそこにまつわる憂鬱・不安・焦燥は、時代を越えて、今なお私たちの足元に続いているのです。
物質的には生命を脅かすものがない環境にあって、精神的にはどこか常に危機と隣り合わせにあるような現代、私たちの心は漱石の苦悶をいまだ解決しえないままその内に抱えているのかもしれません。けれど、もし自己と環境を分かつものが「殻」なのではなく「膜」だったとしたら、どうでしょうか。
前期のHyper-Editing Platform[AIDA]の中で、「内発的動機」という言葉について交わされる場面がありました。本当に、動機は「内」から発するものなのか? 「WILL(意志)」は「私」という主語に属しているものなのか?
ヴァレラの生物学的な視点に立てば、あるいは仏教の世界観にうつせば、心も動機も、環境との相互作用のなかである場面に「さしかかった」ときにはじめてに立ち現れてくる応答にすぎません。絶対的な主体としてではなく、関係のなかで刻々と生成消滅する自己として、自らの命を運んでいるのが生命です。
このような生命の秩序に照らしてみれば、それは「内発」というよりも「創発」と呼ぶ方がふさわしい。そしてその生成の現場にはいつも、ウチとソトをゆるやかに編み直す、「膜」のようなインターフェイスが介在します。掴みどころのないゴーストも、きっとその膜を自在に出入りしているはずです。
中世から近世の日本は、「数寄」によって「場」をつくり、互いに浸透しあう「座」を建てながら、文化も経済も同時に動かしてきました。日本が「座の文化・場の文化」と言われる所以は、人々が集まるところにしか生じない類のエネルギーを文化に仕立ててきたことにあろうかと思います。「一座建立・一味同心」、ひとたび「座」を組めば、そこには相互編集によってしか創発されない「場の心」が興っていきます。
今年10月から始まるHyper-Editing Platform[AIDA]のシーズン6では、この「座」と「興」をめぐって、「個人」という単位には回収しきれない場の諸相に分け入ってみたいと思います。
西洋哲学の最果てに、あるいは日本の足元に、また生命のはじまり原初に見た風景を思えば、自己と環境は、人と人は、あるいはその心は、本当はもっと自然な相互浸透を起こしながら共にいられるのだろうと思います。その間にある境を、壁や殻や塀ではなく「膜」として捉えてみると、心は漱石の苦悶から少し離れることができるのかもしれません。
膜は壊れやすく、だからこそ強い。はじめからレジリエンスを孕んだ知性として、ものごとのあいだのあらゆる境界に存在するものです。そのやわらかな膜的境界性を維持する仕組みが、「座の文化」であろうかと思います。
かつて風だった心は、いまもどこかを吹き抜けているでしょうか。
安藤昭子(編集工学研究所 代表取締役社長)
編集工学研究所 Newsletter「連編記」
アーカイブはこちらからご覧いただけます。
Hyper Editing Platform [AIDA] Season6は受講申し込み受付中です。本楼リアル会場参加は、残席わずかです。ご検討いただける方は、ぜひお急ぎください!
概要はこちらからご覧いただけます。
<AIDA Season6 開催日程>
第1講 2025年10月11日(土)
第2講 2025年11月8日(土)
第3講 2025年12月6日(土)
第4講 2026年1月17-18日(土・日) *国内合宿
第5講 2026年2月14日(土)
第6講 2026年3月7日(土)
東京都港区の虎ノ門ヒルズ内に、話題の新書店「magmabooks」がオープンしました。「知は熱いうちに打て」をコンセプトとした丸善ジュンク堂書店の新業態店舗です。この中に、「ほんのれん」の特設コーナーが設置されました。
各種イベントで売り切れ続出の「ほんのれん」のオリジナル冊子『百考本カタログ』や『旬感ノート』、そして『旬感ノート』で紹介している書籍「旬感本」が並びます。6月までの期間限定開催予定。ぜひお運びください。
詳細はこちらからご覧いただけます。
編集工学研究所がお送りする人気ポッドキャスト「ほんのれんラジオ」で、現在放送中のテーマ「カラダ使えてる?」。こちらにちなんだ公開勉強会(ワークショップ)を開催します。
講師に身体教育研究所の渡辺恒久さんをお招きして、編集工学を応用した身体観「関係性としてのカラダ」について実際に身体を動かしながら学び、交わし合います。
詳細はこちらからご確認いただけます。
<ほんのれんラジオ公開勉強会「カラダ使えてる?編集工学×身体」>
日時:6月8日(日)10-13時
場所:編集工学研究所 1階ブックサロンスペース本楼
講師:渡辺恒久さん(身体教育研究所/イシス編集学校[守]コース番匠)
イシス編集学校がお送りする特別な講座、「多読ジムスペシャル」では、各界の第一線で活躍する人物の編集の方法を徹底的に紐解き、学びます。これまでに作家の村田沙耶香さんや佐藤優さん、社会学者の大澤真幸さんなど多様な方にコラボいただきました。
そして次回、「多読ジムスペシャル」の第6弾では、日本を代表するグラフィックデザイナー、エディトリアルデザイナーの杉浦康平さんに着目し、杉浦さんの編集やデザイン、思索の方法に迫ります。
講座の詳細はこちらからご覧いただけます。
<多読ジムスペシャルコース「杉浦康平を読む」>
【受講期間】2025年6月28日(土)~8月10日(日)<6週間>
【受講資格】イシス編集学校 [破]応用コース修了者
【定員】30名
【お申込み】こちらからお申込みいただけます
安藤昭子
編集工学研究所 代表取締役社長
東京生まれ東京育ち。新卒で出版社に就職。書籍編集に従事するも、インターネット黎明期の気配に惹かれて夜ごとシステム部に入り浸る。javaを勉強し、Eラーニング・プログラムを開発。会社から編集者かエンジニアか選ぶよう言われ「どっちも」と言って叱られる。程なくして松岡正剛を知り、自分の関心が「情報を編集すること」にあったと知る。イシス編集学校に入門、守破離のコースを経て2010年に編集工学研究所に入社。2021年に代表取締役社長に就任。企業・学校・地域など、「編集工学」を多岐にわたる領域に実装・提供している。Hyper-Editing Platform[AIDA]プロデューサー、丸善雄松堂取締役。著作に『才能をひらく編集工学』、『探究型読書』。新芽、才能、兆し、出会いなど、なんであれ「芽吹き」に目がない。どこにでも自転車で行く。
安藤昭子コラム「連編記」 vol.10「型」:なぜ日本は「型の文化」なのか?(後篇)
「編集工学研究所 Newsletter」でお届けしている、代表・安藤昭子のコラム「連編記」をご紹介します。一文字の漢字から連想される風景を、編集工学研究所と時々刻々の話題を重ねて編んでいくコラムです。 IN […]
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2025-06-10
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2025-06-10
藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。
2025-06-06
音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。