この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

「破」はただの学校ではない。
「破」の方法にこそ、
編集を世界に開く力が秘められている。
そう信じてやまない破評匠ふたりが、
教室のウチとソトのあいだで
社会を「破」に、「破」を社会につなぐ
編集の秘蔵輯綴。
49破はクロニクル編集術をたちまちに駆け抜け、12日月曜日、「物語編集術」のお題が出題された。学衆諸賢は、5つの課題映画のなかから1本を選び、その編集的読み解きにかかっているころだ。
思えば一か月前、文体編集術からクロニクル編集術へ歩を進めるときは、ほとんどの学衆が文体編集術最後のお題セイゴオ知文術を終えてクロニクルに突入した。しかし、今回の瀬渡はなかなかそういかないのが毎期の風物詩である。クロニクル編集術の稽古はよく登山に例えられるが、コンパスを落として道に迷い、ビバークしたまま動けない、という学衆も珍しくない。なかには積み残しを突破前に駆け抜ける者もいる。
しかし、である。クロニクル編集術の力を知ったうえで物語編集術の稽古へ入っていくことにはとても大きな意味があるのだ。ちょっとだけその力を、クロニクルあるいは歴史を語る、ということの意味を考えてみたい。学衆諸賢はぜひ背中を押されて、並走してクロニクルを終わらせてもらいたい。
評匠Nは、子どものころ、不思議だった。
年末年始にかかって、冬のフィールドスポーツが華やかになる時節だ。これからラグビーはリーグワンに大学選手権、高校選手権、サッカーは今年は天皇杯はすでに決勝を終えたが、高校サッカーがある。
こういうスポーツ、特に高校スポーツになると、出場校が報じられるたびに「〇年連続」とか「〇年ぶり〇回目」という表記がつく。冬だけでなく春夏の甲子園も同じだ。スポーツだけでなく、年末のNHK紅白歌合戦でさえ、出場歌手に「初出場」とか「〇年連続〇回目」とテロップがつく。
しかしよくよく考えてみれば不思議なことである。高校生活は3年間しかないから、3年間を空けて出場した場合、その学校には甲子園や花園でプレーした経験を持つ選手はいないのである。大舞台での経験がある先輩がいるかいないかは確かに、その学校が力を発揮できるかどうかにかかわりそうだが、そうでなければ、一定のプレーレベルどうしの学校においてはあまり意味はないのではないか。甲子園に出たい、と有力な子が集まってくる可能性はあるが、それでもたとえば10年ぶりの出場、という情報に意味があるのだろうか。子どものころそう考えていたのだ。ましてや紅白においては何の意味もないはずである。
にもかかわらず、人はこういう数字に何か、動かされる。10年ぶり出場の懐かしい伝統校の活躍を心なしか贔屓してしまう。紅白に何十年連続出場の大物演歌歌手(昔の都はるみとか北島三郎とかだが)がトリを務めて朗々と歌うと、ああ、これが日本の年の瀬だよな、などと思ってしまう。
何かしら人の心を動かすこうした力を侮ってはならない。歴史やクロニクルは、それ自体が、物語を発動させる力を持っている。しかもクロニクル自体はデータの羅列でありながら、読み手の編集モデルに働きかけ、それぞれに物語を初発させるのである。一度動き始めた物語は、〇〇時代といった編集を経てますます強くなり、伝統や正統に近づいていく。そうすればますます、クロニクルの力を発揮できるというわけだ。
評匠Nも、再編集が必要だ。
しかし、クロニクルの力には問題もある。既存の力が強くなりすぎると、伝統や正統が圧倒的な力を持ち、新興や異端をはねつけて体制化してしまう、ということも起きる。エスタブリッシュ側の人間はそれでかまわないが、全体としては体制を硬直化させてしまう。一時期の日本プロ野球が「巨人が勝たないとスポーツ紙が売れない」という状況になっていたのもこれだ。巨人ファンは構わないが、実は全体としてみれば斜陽化が始まってしまった、という結果になった。
では伝統に、前衛や新興が挑むためにはどうするか。そのためには、新しいクロニクルを編むべきなのだ。すでにある伝統的なクロニクルをいったんバラバラにし、別のクロニクルのデータをかみ合わせて編み直す。学衆諸賢にはおわかりのように、クロニクル編集術の稽古はこれをやっているのだ。
かなり古い話になるが評匠Nは、1991(平成3)年夏場所初日、幸運にも両国国技館にいた。結びの一番は横綱千代の富士対貴花田の、のちに歴史に残ることになった一番だった。呼び出しの声を観衆が固唾を呑んで聞くほど静まり返った緊張感と、取り組みが終わってからも続く割れんばかりの大歓声は今も忘れない。クロニクルが再編集され、新たな物語が発動したその場に観衆がみな立ち会ったシーンだった。昭和後期を圧倒した大横綱と、角界の貴種流離というべき若者の二つのクロニクルの編まれ直し具合が最高で、確たる新たなクロニクルが見えたのだった。
みなさんも、そういう興奮の瞬間があっただろう。そのとき、どんな複数のクロニクルがどんなふうに編まれ直した瞬間に興奮したのか、そこをリバースエンジニアリングすると自分のクロニクル編集モデルも見えてくる。単に歴史を楽しむ以上の面白さがあるはずだ。
自分でクロニクルを編み直すヒントをひとつ言っておけば、稽古でいうフラグを立てることである。いいフラグを立てられれば、それだけクロニクルの再編集が際立つ。「侍ジャパン」や「フェアリージャパン」、あるいは「クールジャパン」や「ブラックフライデー」といった、組織や体制のほうから呼びかける愛称では力不足で、物事はなかなか動かない。ここは是非とも、リバースエンジニアリングを今度は統合して新たなクロニクルを作るロールに回りたい。
実は、いま、クロニクルの力は世の中で極めて弱い状況にある。スマホやタブレットで、必要な情報だけを抜き出せる時代だからだ、という分析もあるが、確かに物事の裏表や流れ、経緯、ルーツが取り上げられなくなった。「なぜその欠点が生じたのか」を会社や組織が自ら考えず、「この欠点が問題ですね」というコンサル的な評価と監査から物事がスタートしてしまう風潮がある。だからこそ、であるが、クロニクルの力を使えるようになれば活用はいくらでも可能だ。折り返し点を回った49破。クロニクルの力を、物語へ向けて投射するチャンスは、いまなのである。
アイキャッチデザイン:穂積晴明
中村羯磨
編集的先達:司馬遼太郎。破師範、評匠として、ハイパープランニングのお題改編に尽力。その博学と編集知、現場と組織双方のマネジメント経験を活かし、講
座のディレクションも手がける。学生時代は芝居に熱中、50代は手習のピアノに夢中。
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2025-06-10
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2025-06-10
藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。
2025-06-06
音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。