この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

世の中はスコアに溢れている。
小学校に入れば「通知表」という名のスコアを渡される。スポーツも遊びもスコアがつきものだ。勤務評定もスコアなら、楽譜もスコア。健康診断記録や会議の発言録もスコアといえる。私たちのスマホやPCを介した行動履歴や傾向はすでにデータとして記譜されている。
スコアの原義は「切り刻むこと」だ。羊飼いが羊を数える際に20頭ごとに棒切れに刻みをつけたことから、この言葉が生まれた。スコアとは、意図されたひっかき傷なのだ。ルールを決めて記録・記述することがスコアといえる。
[花伝所]の式目演習で、入伝生たちが最初に取り組むのが、このスコアだ。互いの頭の中にある編集構造を交わし合うプロセスこそ「エディティング・モデルの交換」なのだが、モデル交換は、情報の差異と共通項を取り出すことから始まる。相手のモデルを大づかみする必要もあるだろう。取り出した複数のモデルをスコアし、そのスコアを重ねることが「インタースコア」なのだ。
「インタースコア」は[花伝所]の最重要の方法のひとつだが、この「複数重ねる」というアプローチが思いのほか難しい。ただ並べればいいものではないからだ。
では実際にスコアを複数、重ねてみよう。
私の手元にある、意図をもって記譜した記録――クロニクル本から、恣意的な年を取りだして、インタースコアしてみる。
▲手元に集まってきたクロニクル本たちの一部。
点として取り出すのは、昭和と平成の境界であり、ベルリンの壁が崩壊した1989年だ。
この年のことは、今でも記憶に鮮明だ。
同時代人として当時、歴史的な年だという確信があった。手塚治虫、色川武大、松下幸之助、美空ひばり、森敦、古関裕而、谷川徹三、隆慶一郎、松田優作、開高健、田河水泡……私は仲間を集め、1989年に亡くなった人の名を片っ端から記譜した。さらに同年の出来事を記録するべく、近所のおばさんから中学生までさまざまな属性の30人の書き手を集め、「小さなニュースから1989年を見る」を切り口に、小冊子を編集したりもした。
だが、このときの私はまだ「集める」ことで精一杯だった。今回、30余年ぶりに「1989年」という年をインタースコアしてみたい。
一九八〇年代は、おそらく日本の歌謡史上の一つの転換期として後世に記録されるのではないかと思う。その理由の第一は、何といってもCDという新しいレコード媒体の発明であろう。(中略)理由の第二は、一九八九年に昭和という年代が終わったのを象徴するかのように、このころから九〇年代初頭にかけて一つの時代を画した歌い手や作曲家が亡くなっていったことである。(古茂田信男ほか編著『新版 日本流行史 下』社会思想社)
美空ひばりは1989年、川の流れのようにこの身を任せたいと歌い(『川の流れのように』)、同年ユーミンは、ありふれた日も私にとっては記念日なんだと訴えた(『ANNIVERSARY』)。
「このサラダの味がいいね」と彼氏が口にした、という個人的な理由で記念日を作ってしまったのは俵万智だが(『サラダ記念日』河出書房新社)、この歌集がベストセラーになったのはユーミンの『ANNIVERSARY』の2年前、吉本ばななが世に出た1987年のことである。
そのばななの初の長編小説『TUGUMI』(中央公論社)が上梓されたのは、1989年だ。
吉本ばなな作品の特徴は、物語の世界がすべてあるということです。(中略)よく考えれば「そんなバカな」設定の物語が成立してしまうのは外部(社会)との関係が断ち切られているからで、その点ではおとぎ話といっしょです。(斎藤美奈子『日本の同時代小説』岩波新書)
様々な業界が、「小さいもの」へと向かった。
1988年に「新赤版」の刊行を始めた岩波新書もそのひとつだ。
(新赤版は)一口にいえば、主題を身辺に求めた本が増えた。時代ないしその動向を真っ向から俎上に載せる論議を、仮に“大論”とすれば、そうした範疇に括られることを意識的に避けたような“小論”が増えたということである。(鹿野政直『岩波新書の歴史』岩波新書)
小売業界は、「スイートテン・ダイヤモンド」(1989年)などプライベートな記念日を創り出し、購買を煽った(『チャートでみる日本の流行年史』PARCO出版)。
サブカルチャーはここぞとばかりに勇躍、表舞台に踊り出た。1989年には「ゲームボーイ」が発売され(『僕たちのゲーム史』星海社新書)、写真は芸術として根づき始める(『日本写真史1945-2017』青幻舎)。
1989年に『AKIRA』が全米で公開されると、「日本製アニメ映画としては初の大当たり」(フレッド・ラット)となり、ブーム現象さえ起きた。「AKIRAショック」である。これを機に日本アニメは一気に認知度を高め、アングラの世界から脱して幅広い層へ支持拡大を果たしていく。(澤村修治『日本マンガ全史』平凡社新書)
「24時間、戦エマスカ。」(1989年新語・流行語大賞銅賞)とビジネスマンが栄養ドリンクを一気飲みしている同じ瞬間に、社会党のマドンナ旋風が吹き荒れ、日本初のセクハラ裁判が始まり、女子の大学進学率が初めて男子を上回る。男性はアッシーかオタク、女性はオヤジギャルかオバタリアン、というラベリングがされた(『年表・女と男の日本史』藤原書店)。
それぞれは独立したスコアだが、こうやって重ねてみると、1989年が色濃く立ち上がってきた。
少し時計を巻き戻すと、浅田彰は『逃走論』(筑摩書房1984年)で、《何もかも放り出して逃走の旅に出たらどうだろう》と呼びかけた。1988年創刊の『Hanako』は「私のため」という言葉だらけだった。とっくに大論の世界は終わっていて、外部(社会)との関係が断ち切られた個の世界に突入していたことがあらわになったのが1989年だったのだ。80年代に興り、90年代に隆盛となった「自分探し」ブームも、オウムの事件も、1989年を起点にスコアを重ねると得心する。
では「わたし」のスコアと「あなた」のスコアを重ねてみたら? 目の前の事象を新しいスコアで切り取ってみたら? あ、別様の世界が見えてきた。
▲1989年の死者の本たち。左から開高健『輝ける闇』新潮文庫、森敦『意味の変容』ちくま文庫、隆慶一郎『吉原御免状』新潮文庫、手塚治虫『ぼくのマンガ人生』岩波新書。
文・アイキャッチ/角山祥道(43[花]錬成師範)
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角山祥道
編集的先達:藤井聡太。「松岡正剛と同じ土俵に立つ」と宣言。花伝所では常に先頭を走り感門では代表挨拶。師範代登板と同時にエディストで連載を始めた前代未聞のプロライター。ISISをさらに複雑系(うずうず)にする異端児。角山が指南する「俺の編集力チェック(無料)」受付中。https://qe.isis.ne.jp/index/kakuyama
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2025-06-10
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2025-06-10
藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。
2025-06-06
音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。