この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

デザインは「主・客・場」のインタースコア。エディストな美容師がヘアデザインの現場で雑読乱考する編集問答録。
髪棚の三冊vol.3 エディスト的ブロックチェーン考(情報代謝と価値の流通)
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『エンデの遺言』(河邑厚徳+グループ現代、NHK出版)2000年
『ブロックチェーン・レボリューション』(ドン・タプスコット+アレックス・
タプスコット、ダイヤモンド社 )2016年
『クラブとサロン』(NTT出版)1991年
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■情報リテラシーの作法
「情報リテラシー」の必要性は、映像作家の鎌仲ひとみさんに諭された。鎌仲さんは『エンデの遺言』の制作スタッフの一人で、その後も一貫してドキュメンタリー畑で映像作品を精力的に世に放ち続けている。
2008年、私は東京工科大学の研究室に鎌仲さんを訪ねてお話しを伺ったことがある。当時鎌仲さんは、ドキュメンタリーの手法とともに「メディアリテラシー」について学生たちに教授していた。FM番組のためのインタビュー取材だったのだが、そのアーカイブから一部を紹介させていただこう。
鎌仲ひとみさん(2008年 東京工科大学にて)
___メディアリテラシーを養う教育とはどういうものなのでしょう?
それはいろいろあるのですが、人から何かを言われた時にそれをキチンと聞いて自分の中で咀嚼して、それについて自分の意見を言える人間になる、ということがメディアリテラシーの基本なんです。思考を深めるスキルを身につけるということです。
___ということはマスメディアに対してというだけでなく、人と人との関係性についてのことでもありますね。
そうです。コミュニケーション能力がすごく必要です。その力を養うには、発信する立場に立てばすぐ分かるんです。
例えばブログを書いたら、ヒット数を多くしようといろいろな工夫がある訳です。キャッチーにしたり、明るく華やかにしたり、人を惹きつけるいろいろな方法がありますよね。
作る側に立って初めて、必ずしもすべて公平でフェアな形で情報が出されているのではないと分かってくる訳です。
___大学ではどんなアプローチで講義されているのでしょうか。
一番大事なのは第一次情報。直接自分が取材をするということなんです。 実体験はメディアではないんです。その人だけの経験だからその人のものになるんですよ。
でも自分が実体験をして、そのことを人に伝えようとした時にどうでしょうか? 主観が入らないか? 絶対入りますよ。だから「客観報道が在る」という思い込みを、先ず打ち砕かないといけないんです。客観報道なんてあり得ませんよ。主観報道を客観的にやっているだけです。(笑)
自分も相対化して見ることができるようになるのが最終目標ですね。
___誰もが受け手であり、送り手でもある。
発信してるんですよ、人間は。それを見て読み込むことをやっているんです。「今日の上司の雰囲気は?」とか、体全体で発信されているものがありますからね。「あ、今日はマズそう」とかね。(笑)
さてこのインタビューの後、時代は空前のSNSブームを迎えたのだが、「誰もが情報発信の主体となり得ることで培われる筈」と期待された情報リテラシーの醸成はまるで追い着いていないように見える。多様な価値を評価するはずのネットワークは多数性に侵食されるか、然もなくばフィルターバブルのクラスターに分断されるばかりだ。
21世紀に生きる私たちに求められるリテラシーは、大量かつ雑多な情報を取捨選択するだけでは不十分だ。たんに情報を情報として消費するのではなく、食物から栄養素を血や肉へ代謝させるような能力が求められている。この「情報代謝力」が、すなわち情報リテラシーなのだ。イシス編集学校はまさに情報代謝力の向上を志している。
[髪棚の三冊vol.3]エディスト的ブロックチェーン考
1)ヒトの生む価値
2)価値の測り方
3)情報リテラシーの作法
4)情報から価値を生む
深谷もと佳
編集的先達:五十嵐郁雄。自作物語で語り部ライブ、ブラonブラウスの魅せブラ・ブラ。レディー・モトカは破天荒な無頼派にみえて情に厚い。編集工学を体現する世界唯一の美容師。クリパルのヨギーニ。
一度だけ校長の髪をカットしたことがある。たしか、校長が喜寿を迎えた翌日の夕刻だった。 それより随分前に、「こんど僕の髪を切ってよ」と、まるで子どもがおねだりするときのような顔で声を掛けられたとき、私はその言葉を社交辞 […]
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コメント
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2025-06-10
この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。
2025-06-10
藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。
2025-06-06
音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。