この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

デザインは「主・客・場」のインタースコア。エディストな美容師がヘアデザインの現場で雑読乱考する編集問答録。
髪棚の三冊 vol.2「粋」のススメ
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『美意識の芽』(五十嵐郁雄、GIGA SPIRIT)
『「いき」の構造』(九鬼周造、岩波文庫)
『ブランドの世紀』(山田登世子、マガジンハウス)
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■貴族と帰属
前項で紹介したように、私たち一人一人が個々に抱いている美意識は、常に「時代の気分」や「流行の力学」のなかで文字通り漂流している。言い換えれば、美意識には時代ごとに主流と傍流があるのだ。けれど「粋」はそのどちらからも地上3センチだけ離陸して、境界線上を抜き差しするように息づいている。
そこで、「粋」を極めるためにファッション史を振り返りながら時代や社会の潮流を点検してみることにしよう。
古くから人の装いは、その衣装を纏う者の地位を象徴する機能を果たしてきた。とりわけ中世までは「モード」といえば貴族階級の特権的な専有物で、貴族と庶民は外面的な装いによって厳密に区分けされ、ルール(規範)やスタンダード(標準)が求められてきた。その意味で「モード」にはきわめて政治的な思惑が込められており、こうした事情について英ヴィクトリア朝の歴史学者トマス・カーライルは「社会は衣服(≒モード)の上に建設されてきた」と評している。
こうしたルールが初めて劇的に撤廃されたキッカケは産業革命だった。平民でありながら経済力と名誉意識を持つ市民階級があらわれたことで、服装の制限はとりはらわれ、モードは市民社会の「自由」を象徴する生活流儀となって行った。
ところが、ファッションの自由化はむしろ19世紀市民の服装を均質化させることになった。男性の間に「ダンディズム」という美意識が興って、人目に立たない服装が好まれ、制服のように非個性的な装いがモードになったのだ。
ここで働いた力学は、貴族から市民への政権交代である。市民社会の謳歌を勝ち取った成功者たちは、あらたな特権階級を表象させるモードを作り出し、その「流行」へ帰属することを積極的に求めたのだった。
帰属本能と貴族願望。人は何かに属していたいと思うし、承認して欲しいと願う。おそらく世界は今も昔も、この2つの「キゾク」によって廻っているのではないだろうか。それは自尊心を満たす反面、争いや差別を助長する。共感と疎外とは表裏一体であることを、私たちは心に留めておく必要があるだろう。
コップの使い方が多様であるように、自由も正義も革命も流行もそもそもの源泉や原型があって、モードやルールやイイネや炎上には常に別様の解釈可能性が想定されるべきなのだ。
深谷もと佳
編集的先達:五十嵐郁雄。自作物語で語り部ライブ、ブラonブラウスの魅せブラ・ブラ。レディー・モトカは破天荒な無頼派にみえて情に厚い。編集工学を体現する世界唯一の美容師。クリパルのヨギーニ。
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コメント
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2025-06-10
この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。
2025-06-10
藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。
2025-06-06
音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。