この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
『情報環世界』(ドミニク・チェン他、NTT出版)2019年
『ダーク・ネイチャー』(ライアル・ワトソン、筑摩書房)2000年
『なめらかな社会とその敵』(鈴木健、勁草書房)2013年
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
みなさん、こんにちは。31[花]くれない道場花伝師範の深谷もと佳です。美容師です。ローカルFM局で番組制作をしたりもして、「たくさんの私」のうち以上の2つが一種合成されて36[守][破]でFMサスーン教室を持ちました。
サスーンは、ヴィダル・サスーン(1928~2012)に肖っています。髪型をシザーによって造形する手法を世界中に流布させた巨匠です。この「サスーンカット」の流行は、ハンドドライヤーの普及と同期してもいました。美容の歴史はどうしても「髪型」の変遷に耳目が集まりますが、実のところ「技術」によって画期されて来たのですね。ヘアやファッションのモードには、20世紀の大量生産テクノロジーによる強力なアフォーダンスが働いたということです。
さて今回のコラムは、人の風俗・習慣がテクノロジーの進展と分かちがたいという話を、「たくさんの私」と絡めて考えてみることにいたしましょう。
たとえば「自分らしさ」ってどういうことでしょう。美容師である私は、いつもお客さま一人一人の「その人らしさ」を表現することに腐心しているのですが、この「その人らしさ」というのは必ずしも「自分らしさ」と一致しなかったりするものです。一口で言えば、前者は客観的な人物像で、後者は主観的な自己像です。美容師は、主観と客観の間になめらかな線分を想定しつつ、その線分上にヘアデザインを提供しようとする次第なのですが、これがなんとも悩ましい作業なのです。
多くの場合、「他人から見た私」と「私から見た自分」はズレや誤解があるものですし、とりわけ昨今のインターネット社会では「フィルターバブル」の罠を見逃すワケにはいきません。情報過多の時代とはいえ、SNSのタイムラインにしてもショッピングサイトのレコメンド商品にしても、私たちはあらかじめフィルタリングされた情報環境の中に置かれていて、それはまるで見えない「膜」によって隔てられた泡(バブル)の中で暮らしているかのように見えます。私たちはフィルター越しに世界を認知し、他者と隣り合わせに接してはいるものの、互いに交じり合うことはありません。
とすると、いったい「自分らしさ」を語っている主体は誰なんでしょう。
[髪棚の三冊vol.1]「たくさんの私」と「なめらかな自分」
1)「自分らしさ」を語るのは誰?
2)「自分」と「自分じゃない」の境界線
3)「自分」にとって「ちょうどいい」
4)なめらかな「自分」
深谷もと佳
編集的先達:五十嵐郁雄。自作物語で語り部ライブ、ブラonブラウスの魅せブラ・ブラ。レディー・モトカは破天荒な無頼派にみえて情に厚い。編集工学を体現する世界唯一の美容師。クリパルのヨギーニ。
一度だけ校長の髪をカットしたことがある。たしか、校長が喜寿を迎えた翌日の夕刻だった。 それより随分前に、「こんど僕の髪を切ってよ」と、まるで子どもがおねだりするときのような顔で声を掛けられたとき、私はその言葉を社交辞 […]
<<花伝式部抄::第21段 しかるに、あらゆる情報は凸性を帯びていると言えるでしょう。凸に目を凝らすことは、凸なるものが孕む凹に耳を済ますことに他ならず、凹の蠢きを感知することは凸を懐胎するこ […]
<<花伝式部抄::第20段 さて天道の「虚・実」といふは、大なる時は天地の未開と已開にして、小なる時は一念の未生と已生なり。 各務支考『十論為弁抄』より 現代に生きる私たちの感 […]
花伝式部抄::第20段:: たくさんのわたし・かたくななわたし・なめらかなわたし
<<花伝式部抄::第19段 世の中、タヨウセイ、タヨウセイと囃すけれど、たとえば某ファストファッションの多色展開には「売れなくていい色番」が敢えてラインナップされているのだそうです。定番を引き […]
<<花伝式部抄::第18段 実はこの数ヶ月というもの、仕事場の目の前でビルの解体工事が行われています。そこそこの振動や騒音や粉塵が避けようもなく届いてくるのですが、考えようによっては“特等席” […]
コメント
1~3件/3件
2025-06-10
この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。
2025-06-10
藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。
2025-06-06
音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。