この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

ロラン・バルトと「作者の死」
作り出すこと、生産すること。消費し、受容すること。長い間、前者(生産)は創造的で主体的であると考えられ、後者(消費)は受動的で、非主体的であると考えられてきた。つまり、消費(後塵を拝すること)は生産(先駆的であること)より評価されてこなかった。20世紀後半、この「常識」に異を唱えた二人のフランス人がいた。
フランスの哲学者ロラン・バルト(Roland Barthes、1915〜1980)は、1967年、「作者の死」(La mort de l’auteur、邦訳:『物語の構造分析』所収、花輪 光 翻訳 1979、みすず書房)と題したエッセイで、伝統的に作者に与えられてきた権威(テクストの意味の唯一の創造者であり決定者としての地位)を、読者の解釈の自由と置き換えるべきだと主張した。バルトは、テクストは現在・過去の文化からの引用を含む多元的な「織物」であるとし、作者の意図を重視する従来の作品論から読者による自由な解釈へと焦点を移したのだった。
バルトが「作者の死」で意図したことは、テクストを作者の伝記的な評価や権威から解放し、作者の意図から独立した読者の意味解釈の自由を強調したことだった。この見解は伝統的な文学的、知的階層を揺るがし、作者を特権的な地位から降格させ、解釈の権限を明確に読者の手に委ねることだった。バルトの主張は、ポスト構造主義とカルチュアル・スタディーズの台頭期と共鳴し、作者中心の文芸批評から読者中心の権威の移行を強化したのである。
バルトは、「書くことは、あらゆる声、あらゆる起源の破壊である」と主張し、作者の意図や権威が、テクストの意味を決定すべきではないと述べた。代わりに、読者が意味の生成の場となり、読者の誕生は、作者の死を代償として訪れるとした。テクストは、作者から読者へ送られる統一されたメッセージではなく、多くの書き物が混ざり合い衝突する多次元的な空間であり、これは、生産の起源(作者)から生産の受容(読者の解釈)への転換でもあった。
ロラン・バルト『物語の構造分析』(花輪光 訳、みすず書房)
千夜千冊ではロラン・バルト『テクストの快楽』(714夜)が取り上げられている。当夜は千夜千冊エディション『編集力』においても「第一章 意味と情報は感染する」にベンヤミンやカイヨワとともに収録されており、バルトは編集工学研究のキーマンの一人と言っていい。
ミシェル・ド・セルトーと密猟する消費者
フランスの歴史家、社会理論家、哲学者であったミシェル・ド・セルトー(Michel de Certeau、1925〜1986)は、1980年に発表した著書『日常生活の実践』(L’Invention du Quotidien、邦訳『日常的実践のポイエティーク』 山田登世子 訳、国文社、1987)において、消費者が単に受動的な存在ではない点を深掘りした。彼の見解では、消費は生産の一形態であり、特に人々が文化的な素材を使用する方法において顕著だと主張した。日常的なものは,消費者の無数の密漁法からできあがっているというド・セルトーの主張は正しかった。
ド・セルトーは消費者を、利用可能なものを活用するブリコラージュ(Bricolage)や密猟者のような存在として描写した。これは、自身の目的のためにテクストを解釈する読者と似ている。セルトーは密猟(poaching)、漂流(drifting)、やりくりする(making do)といったメタファーを用いて、ユーザーが企業によって強制された製品を自らに都合よく改変、適応させる方法を説明した。
消費者は常に状況に依存しており、一種の「静かな生産」であるとしたセルトーは、注目を作者や生産者からユーザーの戦術へと移行した。例えば、映画を観ることは、観る者の解釈次第で創造的な行為となる可能性があり、都市地図を使うことは、それに従うことではなく、ユーザーは近道を発見するように、都市のグリッドを無視する歩行者と同様に行動するのだ。
ミシェル・ド・セルトー『日常生活のポイエティーク』(山田登世子 訳、国文社→ちくま学芸文庫)
以前、AIDAインタビューで武邑さんは『日常的実践のポイエティーク』が「編集的な自己」に立ち返るための一つの指標になりうることを示唆した。
松岡正剛は千夜千冊1671夜『あらゆる小説は模倣である。』においてセルトーの「密猟」が「エディトリアリティ」(編集によって生まれるニューリアリテイ)とほとんど同義であると記した。
「生産する消費者」——二つの概念の統合
バルトとデ・セルトーは、「生産する消費者」(アルビン・トフラーをはじめとするデジタル議論では「プロシューマー」とも呼ばれる概念)の基盤を築いた。バルトは、意味は作者ではなく読者によって創造されることを強調し、デ・セルトーは、消費が生産的であることを強調し、消費者は「使用」を通じて意味を「創造」するとした。これらは、作者から読者へという、トップダウンのコミュニケーションモデルを拒否し、読者や消費者は、再解釈、リミックス、または原義を転覆する権限すら持った。さらに読者と消費者は、支配的な構造と戦術的に関与していた。例えば、正典テクストを転覆させるファン・フィクション作家の存在である。
現代のメディア生態系において、バルトとセルトーのアイデアは爆発的に広がっていった。ソーシャルメディア・ユーザーは公式コンテンツをリミックス(ミーム、TikTok)し、ファンが自ら編集し、もう一つのエンディングを用意する再作者としても活動している。消費者は共著者としてブランド物語に参加する(例:ユーザー生成コンテンツ)。ここで、生産と消費の境界が曖昧になり、バルトとデ・セルトーが想起した参加型文化が生まれた。読者も消費者も、もはや受容者ではなく、意味の能動的な共生産者であるという理解は、現代の主流な文化概念となったのである。
バルトは「作者」を殺し、読者を解放した。デ・セルトーは消費者にツールを授け、新たなものを築くためではなく、既に存在するものを巧妙に再利用するための戦術を明らかにした。「生産的な消費者」は、無から創造するクリエイターではなく、日常的な記号的抵抗と創造的な流用に参与する狡猾な再利用者の姿となったのである。
「…「消費者」による生産は、さまざまな策略を弄しながら、あちこちに点在し、いたるところに紛れこんでいるけれども、ひっそりと声もたてず、なかば不可視のものである。なぜならそれは、固有の生産物によってみずからを表わさず、支配的な経済体制によって押しつけられたさまざまな製品をどう使いこなすかによって、おのれを表わすからだ。」
ミシェル・ド・セルトー「日常的実践のポイエティーク」
山田 登世子 訳、国文社 (1987/05)
消費者は、与えられたものを巧みに活用し、自分の益になるように作り変える。文化製品のユーザーたちは、支配的文化の経済のただなかで、その経済相手に「ブリコラージュ」をおこない、自分たちの利益にかなう企みに変えると、ド・セルトーは指摘したのである。
読者からユーザーへ:ソーシャルメディアと読者の台頭
21世紀の幕開けと同時期に活性化したソーシャルメディアの登場は、当初、バルトのビジョンである「作者の死」と「読者の誕生」を実現するかに見えた。民主化とエンパワーメントにおいて、ソーシャルメディアは、読者や観客に前例のない力を与え、コンテンツを自由に解釈し、共有し、リミックスし、作成する可能性を切り開いた。Facebook、Twitter、YouTubeなどのプラットフォームは、伝統的な作者/生産者からユーザー/読者への権力の移譲を促進し、専門的なゲートキーパーの支配力を弱めていった。
新たな集団的著作形態の登場にともない、ミーム、ウイルス性、集団的参加は、著作の永久的な分散化を暗示し、コンテンツと意味は、単一の作者ではなくユーザー/読者によって協働的に構築され、動的に定義されるようになった。インフルエンサーとユーチューバーは、異なる種類の作者となり、彼らの台頭は、皮肉なことに新たな形態の作者のあり方を再確立した。ただし、それらはバルトが想定した伝統的な作者とは根本的に異なる形態だった。
個人ブランドとしての作者
インフルエンサーは一貫したパブリック・ペルソナを創造し維持し、事実上「生きている作者」となり、その権威はテクストや芸術的な独創性ではなく、本物らしさ、カリスマ性、そして感じられる事実やフィクションに根ざしていた。彼らの影響力は、知的権威や独創性というより、感情的なつながり、親近感、カリスマ性、個人ブランドから生じている。
同時に、それらはアルゴリズム主導の作者性を有しており、インフルエンサーの権威は、推奨システムや視聴者ターゲティングから生まれ、維持されることが多く、コンテンツの質そのものからではなく、アルゴリズムによって形成された。したがって、新しい「作者」は、技術プラットフォームによって深く媒介された「本物らしさ」を持つ、アルゴリズムによって最適化されたペルソナでもあったのである。
サブスタックと新たな「作者の台頭」
2017年、クリス・ベスト、ジャイラージ・セティ、ハミッシュ・マッケンジー(元Kik MessengerとTeslaの社員)によって米国で設立されたサブスタック(Substack)は、個人作家、ジャーナリスト、コンテンツ・クリエイターがメール・ニュースレターを通じて直接購読者へコンテンツを配信できるパブリッシング・プラットフォームである。
サブスタックはサービス開始以来、劇的に成長し、メディア生態系の再編において重要な役割を果たすようになった。2023年時点で、サブスタックは数百万のアクティブ・サブスクライバーを擁し、数十万人が直接サブスクリプション料金を支払っており、クリエイターにとって経済的に魅力あるプラットフォームとなっている。バリ・ワイス、アンドリュー・サリバン、グレン・グリーンウォルド、ヘザー・コックス・リチャードソン、マット・タイビ、ビル・ビショップ、ノア・スミスなど、著名なライターやジャーナリストが大手ニュース・パブリッシャーから離れサブスタックに移籍し、その知名度と信頼性を大幅に向上させている。
サブスタックはアンドリーセン・ホロウィッツを含むベンチャーキャピタルから多額の資金調達を実施し、2021年時点で評価額が4億ドル(約574億6,531万円)を超えた。サブスタックProなどのプログラムを導入し、著名なジャーナリストに事前支払いと支援を提供することで、伝統的なメディア企業から主要な人材を引き寄せている。サブスタックは、政治、経済、哲学、文化、芸術、文学から、食、科学、技術、健康、ライフスタイルなどのニッチなテーマまで、多様なコンテンツをホストしており、議論を呼ぶ声、独立した思想家、知的反逆者、編集の独立性を求めるジャーナリストの避難所となっていった。
当初は伝統的なジャーナリズムの収益モデル衰退への代替案として構想され、サブスタックの設立目的は、個人作家に経済的自立と編集の自由を回復させることだった。サブスクリプション(月額または年額支払い)を通じて読者に直接コンテンツを課金する仕組みにより、サブスタックは広告や伝統的なメディア企業に依存しない新たな経済モデルを提供した。
分散型ポスト・ニュースメディア
サブスタックは読者が信頼する作者への直接的な支援を可能にし、透明性と責任感を高めている。広告やアルゴリズムによるキュレーションの不在は、編集の独立性を確保し、偏向報道を軽減しており、大規模なオーディエンスを共通の興味や信頼で結ばれたニッチなコミュニティやサブカルチャーに分割する、分散型メディアへの広範な移行を加速させたのである。ジャーナリズムの新たな経済モデルとして、独立系ジャーナリズムの経済的に持続可能な道筋を提供しているが、既に確立された評判や大規模なフォロワーを持つ執筆者に利益が集中している点は課題のひとつである。
サブスタックは、伝統的なメディア、アルゴリズム、広告依存型コンテンツの失敗と不満に対する直接的な回答として、メディア環境における重要な進化を象徴している。その急速な成長は、読者による真正性、透明性、信頼、クリエイターとの直接的な関係への渇望を浮き彫りにしている。しかし、その持続的な成功は、読者がコンテンツを素早く発見できる可能性、経済的な持続可能性、編集の質、そして分断のリスクを効果的に解決するかにかかっている。サブスタックの進化は、信頼できる個人の声、責任あるキュレーション、コミュニティ主導のエンゲージメントが融合した、「ポスト・ニュースメディア」生態系への未来を指し示しているといえる。
「ポスト・ニュースメディア」とは、伝統的なニュース組織への不満、アルゴリズムの偏向、分極化、誤情報、伝統的なメディアソースへの信頼の喪失に対する直接的な反応として台頭したメディアの新たな形態を指している。サブスタックがこの変化の象徴となったのは、アルゴリズムによるキュレーションと広告依存型のニュースから、信頼、透明性、個人の編集の自由を基盤とした読者との直接的な関係へと移行したからだった。
主流のジャーナリズム、分極化、クリックベイト主導のニュースへの失望の拡大を背景に、FacebookやTwitterのようなプラットフォームへの不満、さらにこれらのプラットフォームのアルゴリズムと広告依存型モデルが、センセーショナル主義、誤情報、分極化を助長したこともサブスタックの急成長の要因である。
さらに、伝統的なメディアの財政不安と人員削減により、ジャーナリストが持続可能な代替手段を求めるようになったこと、読者が信頼できる専門的で高品質なコンテンツを、直接著者から購入する意欲の高まりなどが、現在、サブスタックのようなプラットフォームによる新たな転換点を示している。
作者の権威の再奪還
サブスタックの作者は、信頼性、透明性、専門性、個人の声に基づいて、伝統的な作者の立場を意図的に再奪還している。単なる著名性やアルゴリズムによる注目ではなく、いくつかの要素が基盤となっている。その基盤と権威は、長文執筆、編集の透明性、専門性、一貫した知的またはテーマ的な整合性を通じて築かれた読者からの信頼に直接由来している。つまり、読者との直接的な関係性である。アルゴリズムや大量拡散に依存するインフルエンサーとは異なり、サブスタックの執筆者は有料読者に対して直接責任を負い、信頼性、責任感、編集の独立性を高めているのだ。
読者はサブスクリプションを通じてこれらの新しい執筆者を「承認」し、明示的に信頼する執筆者を意識的に支援している。つまり、サブスタックの執筆者は新たな「作者の台頭」を告げていると考えることができるだろう。新たな作者の登場は、バルトの初期の主張を補完し再文脈化することでもある。以下の図は、バルト以前からポスト・ニュースメディアに至る作者と読者の関係相関である。
将来的な影響と課題:ハイブリッドな作者モデル
バルトは、アルゴリズムとプラットフォームを介した作者の特性を予見しなかった。その意味で、サブスタックは微妙な統合を表している。読者の信頼と積極的な参加によって明示的に形作られ承認された作者の復活だが、伝統的なバルト以前の作者とは依然として異なっている。
未来のメディアは、バルトの民主的理想(読者の力)と、技術によって仲介された個人としての作者の権威と責任の再評価を調和させるかもしれない。サブスタックのようなプラットフォームは、作者には倫理的責任、透明性、編集の厳格さ、責任が伴うことを思い出させる。これらの価値は、インフルエンサー主導の経済においては、希薄化されることが多いからだ。
バルトは読者をエンパワーするために作者の死を宣言した。ソーシャルメディアは解釈を民主化したが、同時にアルゴリズム駆動の疑似作者(インフルエンサー)を生み出した。現在、サブスタックや類似のプラットフォームは、読者自身によってエンパワーされた作者の復活を象徴し、信頼できる個々の声の新たな「承認」を意味している。
これは、伝統的な作者性の単純な回帰でも、バルトの放棄でもない。むしろ、意識的で関与する読者が信頼する作者を自発的に承認する、豊かで複雑な進化であり、読者がダイナミックに定義するハイブリッドな作者性なのである。
これが、「生産する消費者」を根本的に新たな次元へと進化させているポイントである。しかし、アルゴリズム・プラットフォームとAI生成コンテンツの時代において、作者、消費、解釈の構造そのものが根本的な変容を遂げているのも事実である。この進化が相互に関連するシフトを通じてどのように展開されるかを探ってみよう。
「作者の死」から「作者の増殖」へ
バルト自身は、出版の希少性と中央集権的な著作に定義された世界での「作者」だった。しかし今日、誰もが作者になれる時代である。TikTokユーザー、ミーム作成者、AIプロンプト・エンジニアなど、作者は流動的で集団的になり、しばしば匿名であり、時にはアルゴリズムによって導かれている。意味は単一の源から生まれるのではなく、ネットワーク化された解釈の群れから生じる。一部の人々はこれをコンテクスト崩壊やコンテンツの転移と呼ぶが、「生産する消費者」も、他の生産消費者、そしてAIに囲まれている。
デ・セルトーは消費者を「密猟者」として想像し、支配的な文化を戦術的に奪取する存在とした。しかし現在、地形は変化している。デ・セルトーの時代のユーザーは、テレビ、本、広告から「盗む」が、現在のアルゴリズム・ジャングルの時代では、ユーザーは無限のフィード、AIの出力を「盗む」のだ。
現代の密猟消費者の多くは、AIアートジェネレーター、GPT、リミックスアプリなどのツールを使用してコンテンツを作成するが、これらのツールは企業の利益とトレーニングデータによって事前に構造化されている。そこには、以下のフィードバックループが存在する。消費者の行動がアルゴリズムを訓練 → アルゴリズムがコンテンツをキュレーション → 消費者が消費し修正 → システムに戻す。したがって、「密猟」は現在、データストリームから抽出する「採掘」であり、システムにデータを供給する「データドナー」でもある。
AIと幽霊作家の台頭
AI生成コンテンツ(例:ChatGPT、Midjourney)はさらに不気味な要素を加えている。つまり「作者」は人間ではなく、過去の表現の統計的鏡像なのだ。ユーザーはプロンプト(AIへの指示テクスト)・エンジニアとなり、作者、編集者、消費者の役割を兼ねている。創造と解釈の境界が崩壊し、プロンプトを入力することは、読むことと書くことの両方なのである。
このハイブリッドな役割は、「生産する消費者」を「キュレーションするプロンプター」のような存在に変えていく。アルゴリズム・エンジンが生成したコンテンツをフレーム化し、選択し、導き、再利用する者である。それは古典的な作者よりもDJに似た存在である。しかし、問題がある。キュレーションするプロンプターとAIとの仲介は、ブラックボックス・システムとトレーニング・データによって制約されており、重要な質問が浮上する。
私たちはまだ「密猟」しているのか、それともプラットフォームの「見えない手」によって微妙に導かれているのか?私たちは生産しているのか、それとも統計的に予測されたものを単に配置しているだけなのか?
バルトによって解放された「読者」は、ネットワークのノードとなり、デ・セルトーの密猟は、アルゴリズムとの共謀者となる。そこでは、もはや誰が何を狩猟しているのか分からなくなる。「生産する消費者」は、AI生成型文化経済における半自律的な編集者である。今や「作者は誰か?」と問うことは、再帰的な鏡の迷宮に入ることを意味する。人間、機械、観客、コードは、すべて共犯者なのである。
アイキャッチデザイン:穂積晴明
図版構成:金宗代
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武邑光裕
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2025-06-10
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2025-06-10
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2025-06-06
音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。