【ISIS短編小説】一瞬の皹・日々の一旬 読み切り第五回 奔馬共鏡

2020/05/21(木)10:56
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パラ陸上選手である比上不比等の必勝ルーティンは、合わせ鏡の夢を反芻することだった。

 

合わせ鏡の夢は、義足を装着した比上の裸身が合わせ鏡の間に立つところから始まる。間もなく鏡像のひとつが無限に続く列から歩み出て、比上を睨め付ける。鏡像の足は生身であり、熱を帯びた汗が、ふくらはぎの曲線に若々しい光沢を与えている。

「貴様、どうして足がある、なんで鏡像が勝手に動いているんだ」

比上の眼球は、五体満足を誇る鏡像の眼球に映り込む自らの義足を凝視する。

「貴様こそ、俺と違うのはどういうことだ、なぜ俺に従わない」

比上の脳裏に不安の霧が立ち込め始める。比上の右拳がつきあげられると、無限回廊の鏡像たちは同じ動きで応える。目の前の鏡像が膝を抱えるストレッチの仕草をしても、回廊の鏡像たちは沈黙を維持している。比上の脳裏に安堵の南風(はえ)が吹き抜け、濃霧を振り払っていく。合わせ鏡を揺らす甲高い笑いが、比上の口腔から噴出する。

「やはり俺だけが、俺のいる世界が本物らしいな」

しかし、鏡像もまた不敵な笑いを口端に浮かべている。

「貴様の背後に連なる鏡像たちは、俺と同じようにストレッチしている。貴様だけはぐれているぞ」

バネの仕込まれた人形のように、比上の上体が、汗を散らせて振り返る。比上の眼球は、

上体を捻らせた裸身と、互い違いに上体を捻る裸身の列を確認する。

「貴様とは、見えている世界が違うということか」

「五体不満足の貴様が、偽物であるに決まっているだろう」

侮蔑の色を呈した鏡像の顔面に、比上は歯を剥く。

「俺は幼い頃、交通事故で足を失い、頭を打った。脳に傷がついたせいで、意識を失う発作を何度も繰り返し、俺ってものは脳が作り出す幻想にすぎないことが分かったんだ。そう、つまり死んだら俺は消えるってことが、子供ながらに分かっちまったんだ。だからこそ俺は、いつかは消えちまう唯一の俺を残したかった。パラリンピックで金メダルを撮り、比上不比等の名を永遠に残す。五体不満足だからこそ俺であったと証明するには、これしかないと思ったんだ。五体満足の貴様は、事故に合っていない俺、つまり俺の可能性のひとつかもしれない。だから、貴様にだけは上書きされるわけにはいかない。貴様以外の鏡像もそうだ。足のない俺だけが唯一の俺なのだ。それを、あらゆる可能性の俺を抜き去ることで証明してみせる」

 

脱皮したばかりの真っ白な決意とともに、比上の意識は合わせ鏡の夢を後にし、現実のスタートラインに還ってくる。前傾態勢を取る比上の隣には、五体満足の鏡像がスタンバイしている。

「貴様が偽物か、俺が偽物か、ここで決着をつけようじゃないか」

比上の眼球に、他の選手は映ってはいない。五体満足の自分と勝負し、勝利する。比上の脳裏には、唯一の俺となる11秒後の歓声がこだましている。

On your mark

音声に合わせ、比上の生身の蹴り足がスターティングブロックを踏み込んだ。

 

~型に依れば~

 

注意のカーソルが鏡に向かい、要素としての鏡像を捉えた。鏡像から意味単位のネットワークを拡げ、鏡像異性体(医薬品の右手型構造と左手型構造の一対)、サリドマイドを得た。左手型のサリドマイドによりアザラシ肢症が生じる、という知見から連想がさらに拡がり、右足のない陸上選手に至った。このパラアスリートの要素は義足、筋肉。ないものフィルターで得られた要素は、生身の右足。機能は短距離ラン、ストレッチなどである。このパラリンピストが鏡の前でストレッチするイメージトリガーとした。

物語マザーに照らすと、原郷は「五体満足だった幼少期」となるだろうか。それが事故により右足を失い(=不足の発見)、それを補完するためにパラリンピックでメダルを獲るという目的を察知し、アスリートとしての闘争を開始したと考えることができる。

ここで、右足がないハンデを乗り越えようとする意志(=パラアスリートの要素)を強調すべく、“鏡に向かって五体満足の自分と対話する”という、「現実とはの世界・異なる自分との対話」を付与することとした。は、キャラクターをattractiveにする重要な要素である。映画『ゴットファーザー』では、洗礼、暗殺、洗礼、暗殺といった具合に、神と悪魔という逆(一対)機能を示すシーンが交互に繰り返されることで、主人公マイケルの異能性強調された。大河ドラマ『秀吉』では、百姓の倅が天下人に上り詰めるという属性の逆転と、謙虚で優しかった秀吉が暴君悪鬼に変貌するという性状(性格的要素)の逆転が、他のどんな英傑とも異なる存在であったことを際立たせた。週刊少年ジャンプならば、強敵により相対的弱者となった主人公が、勇気と友情を要素として、力の差を逆転し、他のキャラクターとは異なる特別な存在(=ヒーロー)に成長するのが王道の展開である。現実・常識・既存とは機能・要素・属性を与え、他とは異なる存在にすることが、キャラクターを魅力的にする第一歩である。

こうして、主人公の鏡像が立ち上がったわけだが、鏡像の属性は、主人公が考える“たくさんの私”のひとつであるため、他にもあらゆる“私”があることを象徴するが必要と判断した。そこで、合わせ鏡による無限回廊(無限に連なる鏡像)をとして用意し、主人公と五体満足の鏡像をとして配置した。主人公にとって五体満足の鏡像は、自らと連動する鏡像の群れからはぐれた異人である。異人が一人でも現れたのだから、無限に列を成す鏡像から第二、第三の異人が出現する可能性は否定できない。しかも、五体満足の鏡像にとっては、主人公もまた異人の一人である。この “どれが本当の私か分からない” “いつ鏡像に取って代わられても不思議ではない”という不安(=主人公の要素心のカメラ)が、主人公の自己保存を望む気持ち(=主人公の要素)と結びつき、闘争へと駆り立ててている(=主人公の機能)という設定とした。

 

 

  • 宮前鉄也

    編集的先達:古井由吉。グロテスクな美とエロチックな死。それらを編集工学で分析して、作品に昇華する異才を持つ物語王子。稽古一つ一つの濃密さと激しさから「龍」と称される。病院薬剤師を辞め、医療用医薬品のコピーライターに転職。

コメント

1~3件/3件

山田細香

2025-06-10

 この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
 建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

山田細香

2025-06-10

 藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。

堀江純一

2025-06-06

音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。