38[花]集団の夢・半生の私 編集ニッポンモデルへ

2022/10/28(金)08:08
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分かりやすさを遠ざけることは容易ではない。半知半解も、心地のよいものではないだろう。方法日本の核心に向かい編集臨戦態勢へといざなうのが、ここ花伝所である。入伝生は先達のふるまいをイメージメントの糧にして、手さぐりのまま師範代というモデルへ向かう。

 

  モンテーニュの一節も なるほどとなりました。 「懐疑や疑念をもつことは、それが晴れるまでの時間をすべて引き受けるということ」 むらさき道場 A.K.

 

見えていることも見えてないことにも“知覚の全面開花”で臨むこと。道場開きの前夜、本楼の劇場空間から38[花]一座に放たれた、校長口伝のメタメッセージである。それぞれの蝕知感覚を呼び醒ましながら、記憶の前景へと個から類へと継承の歴史を想起させながら、朧げで半生な自身にひそんでいる母語のおおもとを擦過してゆく。

 

  変化すればいいというものではなく、その根底にある考え方や方法には普遍的なものもある。それは継承して行く事として、その適用性を変化で得るともいえるだろう。 くれない道場 Y.T.

 

式目演習の初発は「型」。模倣と共読によって、教えるモデルと学ぶモデルを往来し相互互換システムを擬えながら道場演習は進む。継承は方法である。多くの伝統芸能や伝承工芸がそうであるように、受け手の「感」は見所と客間のあいだでうごき、ときに間髪なしの相槌によって更新されモデル化されていく。花目付の深谷もと佳は継承は遅延すると説いた。そのために、道場には礼節と技巧が注がれる。

 

  自分の中に「ふせられている」ものが、相互編集や宴という場で「あく」。…異質を取り込み、変容を恐れないこと  やまぶき道場 M.Y

 

「わからない」をそのままに、生まれる問いが共同知を宿す。思考と知覚のアイダでエディティングモデルの存在が明らかにされていく。対話とフィードバック・ループによって自他の境界は薄れ自己が消失されるのだろう。ためらいの中で覚悟が決まっていく。心の疼きは自らを変容へと向かわせる。

 

  「生物は情報変換体」というとらえかたもあるので、編集は情報変換そのものではないか、という気がしております。 わかくさ道場 T. T. 

 

たくさんのわたしは生物である。生命進化の過程で機能を更新するたび半分以上の既知を捨てて現在に至っている。19世紀のヨーロッパを生きたベンヤミンによれば、パリのパッサージュとは遊歩者が街の記憶の断片を拾い集める場所であった。写真や映画などの新しい芸術を単なる「複製」をこえた意味の再生産だと定義づけている。見えないものを掴むメタホドス。集団の夢は無意識から何を浮上させるだろうか。偶然性を迎え入れながら、本来から将来へと編集パッサージュは「型」に始まっている。

 

文・平野しのぶ

アイキャッチ・阿久津健 

 

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  • イシス編集学校 [花伝]チーム

    編集的先達:世阿弥。花伝所の指導陣は更新し続ける編集的挑戦者。方法日本をベースに「師範代(編集コーチ)になる」へと入伝生を導く。指導はすこぶる手厚く、行きつ戻りつ重層的に編集をかけ合う。さしかかりすべては花伝の奥義となる。所長、花目付、花伝師範、錬成師範で構成されるコレクティブブレインのチーム。

コメント

1~3件/3件

山田細香

2025-06-10

 この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
 建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

山田細香

2025-06-10

 藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。

堀江純一

2025-06-06

音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。