松岡正剛×隈研吾対談 10shot 後篇「方法が多様なものを生む」

2020/09/19(土)13:28 img
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「第二部では参加者を置いていくかもしれないよ」休憩時間中に控え室で呟いた松岡館長は、隈さんのクリエイティビティから第二部を切り出した。

 

第二部 方法とデザイン

クリエイティビティのある種のあり方は、一つはオタクに徹して奥深くから世界に関与するやり方と、もう一つは文明の数だけ引き受けるやり方がある。

松岡「隈さんは文明にオープン。サハラ砂漠をフィールドワークしたり、ヨーロッパを見たり、80年代は日本列島を巡られて、文明に対して引き受けている感じがする」

「建築を勉強し始めた時に松岡さんの影響がすごくあった。1970、80年代の建築学生にとって圧倒的な影響力がある。世界をデザイン可能の対象としてみる、世界に参加してデザインできるという杉浦康平さんの考えが松岡さんの『遊』にあった」

隈 :『遊』には杉浦康平の建築的なものと松岡正剛の編集的なものがある種のエネルギーとなってお互い触発するものがあった。それがあって僕は文化人類的なものにもシームレスに興味を持った。歴史や文明を引き受けているというのはヒストリーとしてというより文化人類学的にある場所と関連して引き受けている。

松岡:世界というものがどう見えるか、かなり何かを表そうとしていた。磯崎新さんと武満徹さんがプロデュースしたパリ装飾美術館の「間」展で、グラフィックデザインを杉浦さんが、エディティングを僕が引き受けたんです。日本には時間と空間を分けない日本的な「間」がある。文明や世界を建築との関係で出してもいいと思ったのは「間」展で感じた。

 

今年出版された隈さんの『ひとの住処』(新潮新書)『点・線・面』(岩波書店)を「すごくいい」と絶賛する館長。隈さんが高校生の時に初めてデザイン理論として読んだのはカンディンスキーの『点・線・面』という。

松岡:隈さんはポストモダンに加担しなかったのがよかった。意図的にそうしたんですか?

隈 :ポストモダンのある種建築家的な世界を創造する神様という感じに馴染めなかった。人間は偉いという人間中心主義がポストモダンの根底にある。それは違うなと思った。

松岡:部分が全体に及ぶことがポストモダンに足りなかった。僕流にいうと部分は全体を超える。自転車のスポーク一本が自転車全体を凌駕するという考えが僕の編集哲学で、石の割肌で建物の表皮を作る隈さんにもそれを感じている。

 

二人の間に方法的共通項が手繰り寄せられ、第二部のテーマである「方法」へと話はさらに深まっていく。

松岡「僕が「方法」を持ち出したのは「世界と自分の間に落ちているものは方法である」と言ったポール・ヴァレリーの影響が大きい。世界と自分の間にはメソッドがあって、それが傘やワイパーや哲学を作ってきた」

「多くの数をやらない時は方法を意識しなくても「こういう感じだね」でできる。数が多くなると方法を意識しないと同じものの繰り返しになる。「こういう感じ」というのは自由なようでいて思い込みに囚われている。方法を意識すると多様なものを生み出せる」

松岡さんほどの読書家はいないと思う。あらゆる分野の本を整理して僕たちに的確に教えてくれる。人類未踏の世界と思う。「その方法を僕は聞きたい」と隈さんは訊く。

「あるものはINしてOUTする。差し掛かって出ていくのが大事と思っている。その時に同じようなものを作っていると入ってきた時と出ていく時の自分の感動や思いは退屈になる。毎回同じ判子は押したくないし、判子も変えたい。一個一個自分にとって変化するために入る時と出る時を注意している」

 

現在同時に200ものプロジェクトを進めている隈さんは主体からではなくネットワークの中からものを創造してきた。1750夜を超えて今もなお千夜千冊を更新し続けている松岡館長は自分の方法を他者化、他在化してきた。隈さんは「松岡さんの発想は建築的」だと言う。

最後に館長の言葉で対談は締め括られる。「ここは民間が運営している。コレクションやストックがあるわけではなく全て借り物になる。11月にオープンしたものが半年や一年で変わっていく。それが面白いし、何かが変化していくプロセスにしたい。どこのミュージアムにもないことが起こるかもしれないので皆さんにもぜひ参加してほしい」

 

二人の「方法」が大胆に可視化された角川武蔵野ミュージアムは今秋いよいよグランドオープンを迎える。

 

角川武蔵野ミュージアム竣工記念対談|隈研吾×松岡正剛

日時 ・・・2020年9月5日[土]
会場 ・・・ジャパンパビリオン ホールB (ところざわサクラタウン内)
テーマ・・・第一部「ミュージアムと建築」 第二部「方法とデザイン」
出演 ・・・隈研吾、松岡正剛
主催 ・・・角川武蔵野ミュージアム (角川文化振興財団)

 

角川武蔵野ミュージアム
https://kadcul.com/

  • 後藤由加里

    編集的先達:石内都
    NARASIA、DONDENといったプロジェクト、イシスでは師範に感門司会と多岐に渡って活躍する編集プレイヤー。フレディー・マーキュリーを愛し、編集学校のグレタ・ガルボを目指す。倶楽部撮家として、ISIS編集学校Instagram(@isis_editschool)更新中!

コメント

1~3件/3件

山田細香

2025-06-10

 この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
 建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

山田細香

2025-06-10

 藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。

堀江純一

2025-06-06

音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。