この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

今年もハイパーエディティングプラットフォーム[AIDA]の季節がやってきた。「生命と文明のAIDA」を考えたSeason1から、Season2では「メディアと市場のAIDA」に向き合い、2022年10月Season3が開講を迎えた。今期のテーマは「日本語としるしのAIDA」。新シーズンの到来とともに、過去シーズンのボードメンバーからの声に耳を傾けてみたい。
※内容は取材時のもの
2020年11月14日(土)、編集工学研究所のブックサロンスペース「本楼」で行われたHyper-Editing Platform [AIDA]シーズン1「生命と文明のAIDA」の対談セッションの模様をお届けします。地球環境史に造詣の深い石弘之さんと編集工学研究所所長でHyper-Editing Platform [AIDA]座長の松岡正剛が、生命の定義に迫ります。対談の最後には思想家の大澤真幸さんも参加、人間社会のあり方の根本を考え直す議論が展開することになりました。
石弘之(いし ひろゆき):1940年東京都生まれ。東京大学卒業後、朝日新聞入社。ニューヨーク特派員、編集委員などを経て退社。国連環境計画上級顧問。1996年より東京大学大学院教授、ザンビア特命全権大使、北海道大学大学院教授、東京農業大学教授を歴任。この間、国際協力事業団参与、東中欧環境センター理事などを兼務。国連ボーマ賞、国連グローバル500賞、毎日出版文化賞をそれぞれ受賞。主な著書に『地球環境報告』(岩波新書)、『森林破壊を追う』(朝日新聞出版)、『歴史を変えた火山噴火』(刀水書房)など多数。
松岡正剛(まつおか せいごう):1944年1月25日、京都生まれ。編集工学研究所所長、イシス編集学校校長。情報文化と情報技術をつなぐ方法論を体系化した「編集工学」を確立、様々なプロジェクトに応用する。2020年、角川武蔵野ミュージアム館長に就任、約7万冊を蔵する図書空間「エディットタウン」の構成、監修を手掛ける。著書に『遊学』『花鳥風月の科学』『千夜千冊エディション』(刊行中)ほか。
植物学者 牧野富太郎に私淑した石弘之さんは子供の頃から植物の観察に夢中だった。植物学者への道を志していたが、大学卒業後は科学ジャーナリストに。地球環境を軸にさまざまな領域を縦横無尽に越境する石さんの仕事ぶりに松岡正剛は「きわ(際)の思想」を看破する。
松岡正剛(以下、松岡) 理科少年だったぼくは昔から石さんのファンです。ぼくが科学に興味を持ち始めたのは1960年代、パチンコ玉と割木で四則演算機を作ったり、鉱物採集をしたり。
当時『自然=Nature』(中央公論社)という科学雑誌がありましたね。その雑誌に物理学者たちが「ロゲルギスト」という同人名で連載していたエッセイに非常に影響を受けました。「サイエンティフィック・アメリカン』(Scientific American)」にはマーティン・ガードナーという数学部門の編集長がいて、「この人はピカイチにすごいな」と思っている中で、科学というものがどういう風に日本の中に日本語で伝えられていくか、ということに関心を持ちはじめました。
そんな時に、朝日新聞に2人のすごい科学記者が登場してきた。1人が坂根厳夫さんという方、もう1人が石弘之さんだったわけです。
ぼくはもともと湯川秀樹さんに私淑していて、物質の「住まい方」「場所の選び方」を教わっていました。
「あんな、松岡さんな、映画館に行くやろう。あんたが最初の客やったらどこに座る」
「真ん中ですかね」
「そうやね。じゃあ、2人目、3人目はどこに座るねん。あんたの隣に座ると思うか」
「いえ、ちょっと開けますね」
「そうやろう。物質かて、そういうことをするんや」
ほかにも「素粒子の奥にはハンケチがたためるくらいの隙間があるんや」とか、そういうことを聞きながら、理科に目覚めていったんです。
ただ、そういう科学的な知識をいろんな情報や観察や現象を通してアップデートしてくれるのは学者じゃないですね。石さんみたいな方(科学ジャーナリスト)がいないと無理なんです。たとえば、レイチェル・カーソンは環境問題の視点で世界を見事に切り取ったわけですが、いまなら、新型コロナウイルス禍のような現象をどのように扱うかということです。
以前、ぼくは「きわ」ということを重視しようと話をしたことがあります。AとBの接点としての『きわ』のこともありますし、インターフェイスという意味の「きわ」もあります。コウモリが大きいか小さいか、洞窟にいるのか木の上にいるのかというような「きわ」もあります。石さんの見方や考え方には「きわ」の感覚が一貫して流れていて、それはお嬢さん(石紀美子)とお書きになった『鉄条網の世界史』(角川ソフィア文庫)の時も感じたし、『砂戦争 知られざる資源争奪戦』(角川新書)を読んだ時にも実感しました。
化学は、本来は流動的な世界を固定的に見ないと進まないんですが、石さんは、たえず流動しながら境目をまたいでいく。そこに石さんの「見方」が設定されている、スコープを持たれているという風に思います。そのまたぎ方にね。
石弘之(以下、石) ありがとうございます。いろいろお話いただいて、たいへんありがたいんですが、まず、始めにせっかく松岡さんとお話ができる機会なので、私なりの「松岡正剛論」を展開してみたいと思っています。おっかなくて誰も、本人を目の前にして「松岡正剛論」をやった人なんていないんじゃないでしょうか。たぶん、バーの隅かなんかではこれまでさんざん繰り返されてきたのかもしれませんけれど。
そういうわけで、5分間ください。
松岡 どうぞ、どうぞ。
石 「好奇心の奴隷」という言葉がありますね。好奇心の虜になっている人間のことですが、私はあえて松岡さんを「好奇心のジャンキー」と言いたいですね。
アドレナリンジャンキーって聞いたことありますか。紐(ザイル)一本で断崖絶壁を登ったり、オートバイで空中を飛んだり、われわれからすると、何が楽しくてこんな危なっかしいことをやるんだろうと思う人たちがいるじゃないですか。本人たちは常に危険に身をさらして、アドレナリンが身体に回っていないと耐えられないという、まあ、おそらくジャンキーだと思うんですね。
松岡さんの御本を拝読すると、やっぱり、彼らと同じようなジャンキーなんだと思えるんですね。つまり、好奇心をどんどん突き詰めていく。1つの謎が出れば10を解決、10の謎が出れば100を解決するのは、松岡さんの文化論や文明論を拝見していくと、「ああ、これが神の愛でし人なのか」、あるいは「悪魔に魅入られた人なのか」と思いますね。
日本で最大のジャンキーは誰か。南方熊楠です。明治から昭和にかけて活躍した大博物学者。残念ながら私の生まれた年に亡くなっているので、お会いしたことはないんですけれども。
彼は当時、大英博物館を足場に世界を駆け巡っていて、10ヵ国語以上を理解した人ですが、ほとんどいつも浴衣1枚で動いているんですね。
彼は粘菌類っていう不思議な微生物の研究を専門にしていた。地べたに座り込んで、粘菌を観察していたわけです。いつものように、粘菌の観察をしていた時、彼の「肝心な部分」が蟻に齧られた。浴衣の下には何も履いていないので蟻が這い上がってくる。普通の人だったら「イテテ」でおしまいになるのに、どういうアリンコが噛んだんだろうかと思い、「某所」にハチミツを塗って蟻が来るのを待っていた。ところが蟻はなかなか来ない。それで今度は、鶏を煮たスープを塗ってみた。やっぱり蟻は来なかった。彼はそれで、「じゃあ、仕方ない。過去に『そこ』を蟻に噛まれた人間がいるだろうか」と考え、古今東西の文献を漁りまして、雄略天皇が「大切な箇所」を蟻に齧られた史実を見つけました。つまり、それと同じと申し上げるわけではないんですが、なんというか、そのような。
松岡 ジャンキーかどうかは分からないですが、好奇心が専門だとは思っていますね。好奇心とは何だろうと本気で思っています。
子猫は新しいものを見ると、警戒することもあれば、近寄っていくこともあります。あの分岐点、境目、「きわ」が、人類の何かと非常に関係があると思うんですよ。そういう意味では「新奇恐怖症(ネオフォビア)」と「新奇好奇症(ネオフィリア)」があって、ぼくはその両方を持っていると思いますね。でも、恐怖症はあんまりなくて、どっちかというと、好奇心を持つ方なんですけれども、それがその後、中毒になっていく。それが延々続く。熊楠ほどの人はなかなかいないかもしれませんが、でも、たとえば本阿弥光悦のように、あるいは西行のように、ずっと好奇心を漉(す)いていくというか、スクリーニングし続けるということに感心がありましたね。ぼくの人生は好奇心を漉くことの連続なんです。
もう1つ、たとえば、湯川秀樹が三浦梅園とか空海を読んでいる時、それからボスコヴィッチという日本の科学者があまり読んでいない人の本を読んでいる時の読み方、見方、拾い方、つかみ方、並べ方、あるいは、南方熊楠がやっていたようなことは、あの人じゃないとできないことをそのまま、南方熊楠が他のものを、蟻を見たりするようなものをもう一度、南方熊楠を見ている柳田国男とか中沢新一の視点で見ていくという、そういう見方の連鎖に関心があるんです。
石 私はもともと植物学者になろうと思っていたんです。5歳の時から牧野富太郎先生のお宅に出入りしていました。それで、大学を卒業するまで植物学をやっていたんです。
植物が好きだから毎日植物を見ていると、環境の変化によって(植物が)どんどん変わっていくわけですよ。いなくなったり、とんでもない奴が入ってきたり。そこから環境に目覚めた。だから植物がなければ、環境の変化にこれだけ敏感にならなかったのではないかと思います。同じことを松岡さんは、人間の文明、文化でやっていらっしゃる。私は自然が相手ですから、自然を相手にそういう中毒熱を癒やしている。
松岡 牧野さんに私淑されたのが大きいのでしょうね。そうですか。ぼくの小学校時代の聖人、偉人は、牧野富太郎、野尻抱影、中西悟堂なんですよ。この3人がどんな学者よりも偉いと思っていました。ぼくの友人に内藤廣という建築家がいるんですが、彼が牧野記念庭園記念館を設計しましてね。
石 練馬区東大泉の。
松岡 はい。彼もやっぱり牧野さんには惹かれていたようですね。
石 牧野先生のように、われわれも若い人たちの好奇心を摘まないで、育てないといけないと思うんですよね。
松岡 そうですね。
石 私は牧野先生の一番ちびっこの弟子なんですけれども、一生懸命ピンセットで花びらを1枚おきに抜いていって「先生、新種を発見しました」と持っていくと、そういうものでも牧野先生はちゃんと相手してくれるわけです。一応、匂いを嗅いでみたり、噛んでみたりして「おお、これは新種だけれども、ずいぶんピンセットが活躍したんじゃない?」と言いながら。
松岡 石さんも少年時代から理科少年だったんですね。
石 まさしくそうです。ですから将来は植物学以外、やる気はなかったですね。ところが卒業する頃に大学紛争が勃発して、大学がごちゃごちゃになっちゃって。仕方ないから2〜3年どこかに避難して、また大学に戻るつもりで朝日新聞社に入ったんです。それがよかったのか悪かったのか。新聞社の仕事ってなにしろ面白いんですよ。あんなに好奇心を満足させてくれる商売はなくて、結局30年近くやってしまった。それでまた大学へ戻ったんです。
松岡 朝日新聞の科学部が一番面白かった時期ですね。
次回に続く…
撮影:下川晋平
編集:谷古宇浩司(編集工学研究所)
※2021年4月5日にnoteに公開した記事を転載
エディスト編集部
編集的先達:松岡正剛
「あいだのコミュニケーター」松原朋子、「進化するMr.オネスティ」上杉公志、「職人肌のレモンガール」梅澤奈央、「レディ・フォト&スーパーマネジャー」後藤由加里、「国語するイシスの至宝」川野貴志、「天性のメディアスター」金宗代副編集長、「諧謔と変節の必殺仕掛人」吉村堅樹編集長。エディスト編集部七人組の顔ぶれ。
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2025-06-10
藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。
2025-06-06
音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。