千悩千冊0020夜★「『今』の自分が見えません」60代女性より

2021/04/26(月)09:24
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未来が見えないさん(60代・女性)のご相談
年々歳を重ね、
老い先短い年齢に差し掛かってきましたが、
なにか夢を持とうと一念発起しました。
せっかく夢を持つならと、
今までの人生を一度振り返ろうと思いましたが、
そもそも「今」の自分の姿が、見えてこないのです。
考えれば考えるほど、
今まで生きてきた人生が、虚しく感じることさえあります。
漠然とした希望はありますが、
これでは夢を持つどころではありません。
「今」の自分を見出す方法を教えていただけないでしょうか。

 

サッショー・ミヤコがお応えします

とても他人事とは思えません。「夢を持ちたい」という前向きな気持ちから始まって、リバース・エンジニアリングしようとしたまではいいものの、そもそも「今」が見えないことに気づき、考えるほどに落ち込んでしまわれたのですね。サッショーもいつもそのくり返しです。もしかして自分が幽体離脱して投稿したのでは、と疑ったぐらいです。なぜなのか、一緒に考えてみましょうか。

サッショーの場合、今まで生きてきた人生が虚しく感じるのはしょっちゅうです。というか、「今まで生きてきた人生」について考えると、例外なくそうなるのがわかっています。なのに、気がつくと考えてしまっている。これでは井上陽水の「人生が二度あれば」だと思いながら、分岐点を探っては、戻れないことに気づかされる。昔の人はそれを名付けて「小人閑居して不善を為す」と言ったのですね。

虚しいのは、これもサッショーを引き合いに出すと、おそらく「酔生夢死」と言われる状態だったからではないかとかんがえています。その場その場で、場や時に応じた夢に向かって生きては、その到達とともに死んでいる。それをくり返しているわけですから、人生いつも夢の中。つまり、サッショーは夢を持つ必要のない人ということになります。未来が見えないさんは、いかがでしょうか? というか、「未来」というのは見えないから「未来」なんだと思いますよ。

 

千悩千冊0020夜
アーシュラ・K・ル=グウィン、谷垣暁美訳
『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて』(河出書房)

 

 

未来が見えない自分はひとまず棚上げして、未知に向かうのが得策だとサッショーは考えます。入門も行動開始もよいですが、本は、その最も手近な入口。1969年に『闇の左手』で世界を震撼させ、SFやファンタジーや女流の意味をことごとく塗り替えていったアーシュラ・K・ル=グウィンは、81歳になる1週間前にブログを始めました。その中の選りすぐりを集めたのが、本書です。少し変わったタイトルは、ハーバード大学が1951年度卒業生へのアンケートのなかで、「余暇には何をしますか?」と質問してきたのに対して、猛烈に反発したもの。「私は来週八十一になる。余っている時間などないのだ」と言ってブログに取り組みだし、彼女の考えてる「大切なこと」を読ませてくれるようになったのですから、結果的にハーバードはビンゴだったわけですね。

彼女の考える大切なこととは、たとえばホメロスの『イリアス』に比較できるような戦争物語は『マハーバーラタ』ぐらいだな、とか、ファンタジーを逃避だという人には、そもそも逃げるとはどういうことなのか、それは何に対する非難なのかを聞いてやりたい、とか、経済学者はなぜ経済を「成長」というメタファーから解放することができないのか、とか、とかとか。そして、今現在を生きる子どもたちのこともいっぱい考えています。未来、子どもたちのなかに見いだすこともできそうですね。

ル=グウィンは2018年に亡くなりました。帯には「このブログ全体が、ながら仕事へのささやかな批判であり、ひとつのことを全力でやることへの讃歌である」と記され、その理由を聖書の「陰府(よみ)には仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ」という記述に負うています。

 

◉井ノ上シーザー DUST EYE
走り回ってのどが渇き、目前の海水を飲む。またのどが渇いて海水を飲む。そんな犬の姿を、相談と回答を眺めながら、自分と重ねました。海水を飲むことをやめればよいのか。きれいな真水を探せばよいのか。目前の海水を飲み干せないことをいいことに、海に飛び込み口を開けるか。

 

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  • 井ノ上シーザー

    編集的先達:グレゴリー・ベイトソン。湿度120%のDUSTライター。どんな些細なネタも、シーザーの熱視線で下世話なゴシップに仕立て上げる力量の持主。イシスの異端者もいまや未知奥連若頭、守番匠を担う。

コメント

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山田細香

2025-06-10

 この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
 建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

山田細香

2025-06-10

 藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。

堀江純一

2025-06-06

音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。