千悩千冊0001夜★サッショーしまっせ「童話の説明の仕方にもやもやします」40代女性より

2020/11/05(木)15:01
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おかかおにぎりさん(40代女性・主婦)のご相談:

長女(7)に、グリム童話などさまざまなお話を読み聞かせています。物語の冒頭で「ねえ、びんぼうってなに?」「ままははってなに?」「ままこって?」と尋ねられます。その時、自分がとっさに正しい説明をできているのか? ザワザワします。また、ラストでは「王様は、(冒険から戻ってきた)男に一番美しいむすめを与えました」といったフレーズがでてきたりしてモヤモヤします。自分が読んで育ったので、読ませたいと思っていましたが、悩むようになりました。しかしすたれてしまうのも惜しいような気がします。

 

サッショー・ミヤコがお応えします

 継母の継子いじめの物語として名高い『白雪姫』や『ヘンゼルとグレーテル』 ですが、グリム兄弟の収集した「民話」では実母の子殺し、子捨ての物語だったことはつとに指摘されていることです。初稿から「定本」に至るまでの間に 市民社会の「教育的配慮」に適合するよう、何度かの書き換えを経たのだと言います。ああ、「教育的配慮」の5文字の下、いかにコンヴィヴィアルな知恵の多くが葬り去られてきたことでしょうか。とはいえ、悪いのは「教育的配慮」 だけではありません。「I am a woman in love」の6ワードによっても、八百屋お七の火つけ、ジュリエットの服毒、清姫の蛇体による追跡など、さまざまな愚行・蛮行がくり返されてもきました。

 おかかおにぎりさんのお悩みは、「自分がこどもの頃に受け取った体験をわが子に(引いてはその次の世代に)伝えたい」という「類」としてのおもいと、 「でも大人になった自分は、ここに毒が仕込まれていると学んでしまった」と いう個としての逡巡とのせめぎ合いであろうかと考えます。また、人類が長くあえいできた「飢餓」の状況を現在の自分たちは免れていることに対するちょっとした贖罪感もあるようですね。しかしながら、人間、一寸先は闇です。こ の先100年のことはわかりませんし、子供の全生涯を守ってやることもできま せん。であれば「毒にも薬にもならない」凡作を100冊読ませるよりも、毒入り林檎をちぎっては投げてみたり、噛んでは含めさせたりして、本人の選球眼 や免疫を自主的に高めさせてあげるのが、真に子思いの母ではないでしょうか。

 そこで、この春に千夜千冊されたカート・ヴォネガット・ジュニアの「この一冊」です。

           

千悩千冊0001夜

カート・ヴォネガット・ジュニア

『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』

早川書房

 

 ほかの生物が精神テレパシーの代りにコトバを使いたがるのは、コトバを使うともっとたくさんのことができるのに彼らが気づいたからだ。

 コトバは彼らをはるかに活動的にする。精神テレパシーだと、みんながつねにあらゆることをみんなに伝えているため、すべての情報に対して一種の全体的な冷淡さが生まれる。

 だがコトバは、狭い意味をゆっくりとしか伝えないために、一度に一つのことだけを考えることが──大きな計画に対して思考を進めることが──可能になる。

 

 ヴォネガットは「愛は負けても、親切は勝つ」ということを本気で広めようとしていました。抹香臭くいうと、「愛もまた煩悩」なわけですよね。

 時には空襲の下、時には母のない子のように。サッショーみやこ、12歳からずっと「ままこ」、おかげで大人の別離を味合わずに済みまする。

 

◉井ノ上シーザー DUST EYE

 

 例えば「一番美しい娘を与えた」といった記述には、その昔女性は交換物であった、という事実が隠されているわけですね。

 わたしでしたら、

   「びんぼう」→「お金がなくて困っている状態」

   「まま母」→「父親の再婚相手の女性」

   「まま子」→「その子供」

 と、プロトタイプ的な表現で、躊躇なく説明するでしょう。そして、こどもの表情をちらちらと伺ったりする。まー、駆け引きみたいなものですね。

 

 毒を食わせ生き延びる術を伝えようとするサッショーと、子供に対してすら商売人のごとく様子をうかがうシーザーでした。

 

 「千悩千冊」では、みなさまのご相談を受け付け中です。「性別、年代、ご職業、ペンネーム」を添えて、以下のリンクまでお寄せください。

 

 

  • 井ノ上シーザー

    編集的先達:グレゴリー・ベイトソン。湿度120%のDUSTライター。どんな些細なネタも、シーザーの熱視線で下世話なゴシップに仕立て上げる力量の持主。イシスの異端者もいまや未知奥連若頭、守番匠を担う。

コメント

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山田細香

2025-06-10

 この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
 建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

山田細香

2025-06-10

 藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。

堀江純一

2025-06-06

音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。