この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

幼い頃から変わらぬ癖がある。ものを考えるときに上を向く癖だ。斜め上を見上げる。前頭葉に意識を向ける。目を閉じる。開く。その向こうには空が広がっていた。空には言葉未満の言葉が光となり、私を迎えてくれていた。そこに意味を見出す。雲と雲の形を繋ぐように、時折目の中に現れるピンホールを埋めるように。
空をみていると思い出すことはいくつかあるが、その一つに出身教室である45[守]ストールたくさん教室がある。師範代は若林牧子師範代(52守同朋衆)。私の最初の教室名イメージは、空にたなびくストールだった。ストールは自在に形を変え、たくさんの関係線を結んでくれた。時に、深海を泳ぐリュウグウノツカイに見立てられ、なかなか出会えぬ偶然を迎えに行く方法を学んだりした。そしてこの教室からは、同期で3名の師範代が生まれた、私の原郷である。思い出は数えきれないほどあるが、「渡」を超えるような出来事といえば、空文字アワーだった。
元来内弁慶で夢見る夢子、人と協力することも同じことをするのも許せず、編集稽古の回答や指南をみて、あーこんな考えの人もいるんだとどこか他人事。自分の領域に入ってこられるのがイヤでたまらなかった。
だから、空文字アワーが始まった時も、すぐに書き込みに飛びついた私だったが、実は次はこんな文章が来て欲しいと考えながら投稿をしていた(今考えるとすごく身勝手ですが…)。最初からゴールを勝手に思い描いていて、そうならないことに気持ち悪さを感じていた。
しかし、もちろんそんなに自分の思い描くように進むわけがなく、文章はとんでもない方向へ進んでいくことになる。
始まってから3日目、オーストラリア在住の学衆からこんな書き込みがあった(のちに、48[守]で共に師範代登板することになる)。
【W・M】12月25日大きな荷物をソリに積み終え、夜明け間近に思い立ってようやく山小屋を抜け走り出すと、キンとした気持ちのいい風が東の方角からそっと吹いていたのを( )炎を見つめながらしみじみと思い出した。
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【W・Y】12月25日大きな荷物をソリに積み終え、夜明け間近に思い立ってようやく山小屋を抜け走り出すと、キンとした気持ち( )のいい風が東の方角からそっと吹いていたのをピンクの猿と燃え盛る炎を見つめながらしみじみと思い出した。
衝撃が走る。猿ですと? しかもピンク!
その瞬間、私の中にあったものはガラガラと音を立てて崩れていった。喪失ではなく爽快。崩れゆくことの気持ちよさを生まれて初めて感じたのだった。幼い頃から誰かの言葉でとどめを刺してもらいたい気持ちがあった。生意気で身勝手な私を昇華してくれるような言葉を待っていたことを思い出した。
はちゃめちゃで何処へ向かうかわからない不安と、大きなものに包まれたような安心感。自分の単語の目録にはない言葉が加わることの痛気持ちよさ。そんな交わし合いを日に何度も繰り返し、自分1人では到底見ることのできない景色をその後も次々と見ることになった。私たちは、宇宙へ飛び立ち、三年坂のぜんざいの味をかみしめ、月と地球を行ったり来たりした。振り返ると、自分と外界を結ぶ境界が自由になっていくのを感じる出来事だった。
11月17日午前5時55分。白墨ZPD教室出された空文字のお題は、
「雪が降ってきた」
ピンクの猿は降ってくるのだろうか。
大濱朋子
編集的先達:パウル・クレー。ゴッホに憧れ南の沖縄へ。特別支援学校、工業高校、小中併置校など5つの異校種を渡り歩いた石垣島の美術教師。ZOOMでは、いつも車の中か黒板の前で現れる。離島の風が似合う白墨&鉛筆アーティスト。
世界は書物で、記憶を想起するための仕掛けが埋め込められている。プラトンは「想起とは頭の中に書かれた絵を見ること」と喝破した。松岡正剛校長は「脳とか意味って、もっともっとおぼつかないものなのだ。だから『つなぎとめておく』 […]
52[守]師範代として、師範代登板記『石垣の狭間から』を連載していた大濱朋子。今夏16[離]を終え、あらためて石垣島というトポスが抱える歴史や風土、住まいや生活、祭祀や芸能、日常や社会の出来事を、編集的視点で、“石垣の隙 […]
虹だ。よく見ると二重の虹だった。見ようと思えば、虹は何重にもなっているのかもしれない。そんなことを思っていると、ふいに虹の袂へ行きたくなった。そこで開かれる市庭が見たい。 そこでは、“編集の贈り物”が交わされていると […]
52[守]師範代として、師範代登板記『石垣の狭間から』を連載していた大濱朋子。今夏16[離]を終え、あらためて石垣島というトポスが抱える歴史や風土、住まいや生活、祭祀や芸能、日常や社会の出来事を、編集的視点で、“石垣の […]
離島在住の私は、そうそうリアルで同期の仲間にも教室の学衆にも会えない。だけど、この日は別格だ。参集する意味がある。一堂に会するこの場所で、滅多に会えないあの人とこれまでとこれからを誓い合うために。潮流に乗り、本楼へと向 […]
コメント
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2025-06-10
この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。
2025-06-10
藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。
2025-06-06
音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。