42[花]編集トリオの身体知トーク◆破る編

2025/04/09(水)08:00
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42[花]編集トリオの身体知トーク・容る編の続きです。

編集学校の学びは、学習ではなく「稽古」である。私たちは稽古を通じて多くのものを受け取り、方法ごと血肉にしている。ロールチェンジも頻繁に起こる編集学校はユニークだ。このシステムがもつ可変性と、リテラルな編集稽古を通じてなにが受け渡されているのか。大量の入力情報を浴びながら、言語化に向かわせる花伝所の学びの特徴とは。[42花]から、パンを焼く花目付(編集学校歴10年)、熟練錬成師範(編集学校歴18年)、システムエンジニアから医療に転じた新師範(編集学校歴3年)の三人が集い、自らの稽古体験と更新について鼎談の場をもうけた。破る編は、編集稽古が閾値に達すると何が起こるのか。身体化と閾値の関係に着目したい。(全3回)


 

■「閾値」に達すると何が起こる?

 

齋藤:少し前に出てきたことですが「身体を伴う体験は、編集稽古と相性がいい。ある閾値に達すると自分の内部と照合されて、情報の理解度が急に深まる」という話が出ました。そこで思い出したのが、千夜千冊1324夜のジョルジュ・アガンベン『スタンツェ』です。アガンベンは『幼児期と歴史』で、インファンティア(幼児期)のことを「いまだ言語活動をもたない状態」という捉え方をしています。インファンティアとは、非言語的ながらも、言語がそこを前提として成立していくような「埒」のことである。そこは穿たれた「場所」であり、その穿たれたところから、何らかの新たな衝動をえて言語化に向かう。経験を語るのも、歴史を語るのも、美術表現にいたるのも、そもそもがインファンティアに発し、インファンティアに根づいていると。

 

ジョルジュ・アガンベンの初期著作。人間が言語化することに向かうプロセスを緻密に読み解く考察が眩しい一冊。

 

平野:ということは「閾値」に達するというのは、そもそもの起源に遡っていくということ?

 

齋藤:そうかもしれません。身体化と言語化のあいだにインファンティアがある。

 

高田:「そもそもその情報はどこから来たか」を縦に辿る方法と、連想で横に広げる方法で、行ったり来たりするうちに、思いもしない新しい何かに出会うことってありますね。奥にあるものを覗いてみたくなる感じでしょうか。

 

平野:閾値に達するのは急ですね。なにかの情報に接して、突如「あ、これだ!」が発現する感覚があります。異物に触れて化学反応するように、未知だったことの一端に触れて、なにかが破れる感です。普段は気に留めていない断片情報が、非線形で非連続につながる予兆を感知する。既知に触れるような直観です。  

 

齋藤:そう。そこが編集学校を続けられる理由になっているはずです。学衆は自分にとっての「閾」にあたるモノ、それは特定の場所だったり出来事であったりもするでしょう。そういうモノを標的にして、推敲して錬磨しながら回答を続ける。師範代はそこに、まなざし入りの指南を手渡す。でも決して学衆の編集的自由を奪うことを師範代はしない。

 

平野:他者は絶対に必要ですね。他力といえば仏教、方法日本のバックボーンです。わからなさを敢えて許容して、先に進むと顕れる景色もあります。蓄積と研鑽の賜物は、実にアート!校長はアルス・コンビナトリアだと断言してました。

 

齋藤:はい。それこそ校長自身が作り出したアートに注目したいです。編集学校でアルス・コンビナトリアの最高傑作がありますね。高田師範、わかります?

 

高田:教室名ですね。

 

平野:花伝所を放伝して手にするモノは指南メソッドだけではない。校長と私とのインタースコアで生成されて「託したよ」と校長の思いを込めた教室名が手渡される。唯一無二の名、まさに結合術です。

 

齋藤:名づけられることで、この名に恥じぬようにという矜持ももてるはず。真っ新な教室とまだ見ぬ学衆の顔を思い浮かべて、ふたたび[守]の場に立つ。編集学校の使命をもって[花]から[守]に越境します。

 

高田:教室名をもらうとジワジワきますが、そこからは世界定めー場のしつらえー開講と時計の針が一気に動き出します。お題を出す側になっていく稀有な学校です。 敢談儀で『芸と道』図解について問答する高田錬成師範。入伝生の見立てをリバースエンジニアしながら学びを更新中。

 

平野:いくつかの門をくぐり、教室名にはじまる編集ロードですね。最初の編集マジックは名づけ。教室名にぎゅっと凝縮されている世界観を展いていく冒険譚なんですね。編集工学という現代の魔術を身に着ければこそ、新しい道や世界はいくらでも創出できるなんてワクワクします。編集稽古を継続する醍醐味は、はじまりが何度でもやってくる愉快を身体で知っているからですね。
(了)

文/齊藤成憲・平野しのぶ・高田智英子
アイキャッチ/高田智英子
アイキャッチ写真/後藤由加里

肖る編

容る編  

 
  • イシス編集学校 [花伝]チーム

    編集的先達:世阿弥。花伝所の指導陣は更新し続ける編集的挑戦者。方法日本をベースに「師範代(編集コーチ)になる」へと入伝生を導く。指導はすこぶる手厚く、行きつ戻りつ重層的に編集をかけ合う。さしかかりすべては花伝の奥義となる。所長、花目付、花伝師範、錬成師範で構成されるコレクティブブレインのチーム。

コメント

1~3件/3件

山田細香

2025-06-10

 この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
 建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

山田細香

2025-06-10

 藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。

堀江純一

2025-06-06

音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。