この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

マッチが一瞬で電車になる。これは、子供が幼い頃のわが家(筆者)の「引越し」での一場面だ。大人がうっかり落としたマッチが床に散らばった途端、あっという間に鉄道の世界へいってしまった。多くの子供たちは、「見立て」の名人。それは、日本古来からの方法だと花伝所にきて気が付いた。
一方、現代に生きる大人はどうだろう。もし、「マッチの使い道を次々に言ってください」と言われたら?
・何かを燃やす
・花火をする
・線香をあげる
・BBQの炭に火をおこす
・ろうそくに火をともす
・暖をとる
体験に基づく使い道もいいが、先の子供たちと一体何が違うのだろう。
■編集とは何か。「知」とは何か。
多くの一般の読者は、雑誌や新聞をつくることをイメージするかもしれない。イシス編集学校ではこうだ。
情報が私たちにとって「必要な情報」=「知」になること。これこそが「編集」なのです。イシス編集学校ではそのために、情報をどのように動かすかといいか、そのプロセスに関わる方法を学びます。
言いかえると、情報を受け取って(in)、何かを出力する(out)のあいだに起こっていること全てを「編集」と呼ぶ。「知」は「心で感じ知る」「認める」「知識」「もてなし」という意味も合わせ持つ。つまり、ある情報が私たちにとって「必要な情報」として見方づけされること、これを編集と呼ぶのだ。
■人間にひそむ能力とは? ー 注意のカーソル ー
基本コース「守」の最初のお題では、連想ゲームのようにコップの言い換え、その使い道を20通り以上考える。人間が<同義的連想>をするとき、アタマの中では何がおこっているのだろう。『知の編集工学 増補版』(朝日文庫)から著者・松岡正剛校長にお出ましいただき、校長の視座を感じながら対話するかのように考察したい。
イシス編集学校 松岡正剛校長
(※『知の編集工学 増補版』からの引用にはページ数を明示した)
校長:机の上にコップがある。コップを見ているということは、そこに注意(attention)を向けているということである。この「注意を向ける」ということが、編集を起動させる第一条件で、そこに注意を向けないかぎり、どんな編集もおこらない。(63頁)
高田:どきっ。注意を向けなければ、自らアフォードされなければ、編集ははじまらないってことですね。
校長:編集工学では、この「注意を向ける」という行為を「注意のカーソル」を動かすというふうに言っている。まさに「意を注ぐ」ということで、その矢印が向くところに「注意のカーソル」があるわけだ。(63頁)
高田:「注意」って何でしょう?
校長:注意とは、わかりやすくいえば、その対象にイメージの端子をそそぐことである。コップならコップという区切りを自分に対応させるのである。コップから注意を離すことも可能だ。机の上のコップの隣にケータイがあれば、そこに注意をすばやく移すことになる。そしてコップとケータイだけに注意が向けられたという記憶が残る。それ以外の、空気とか机とか、机の上にのっているものとか、埃とか色とかは、背景に消し去られる。(63頁)
高田:なるほど、注意は、自分の意図の先端を対象に向けたり、くるりと離したりする情報との向きや接地に大きく関わるのですね。
校長:ひるがえって情報には、情報の「地」(ground)と情報の「図」(figure)というものがある。「地」は情報の背景的なもので、分母的だ。「図」はその背景にのっている情報の図柄をさす。こちらは分子的だ。(64頁)
高田:空っぽのコップの背景には、使い道、使われる場面、使う人、遊び、記憶、転用、経済……などありますが、注意のカーソルは次から次に背景を動かしているんですね。
校長:脳の中は、知識やイメージを多数の「図」のリンクを張り巡らしているハイパーリンクなのである。これを<意味単位のネットワーク>とよぶことにする。コップはひとつの意味単位であり、ガラス製品もひとつの意味単位である。それらが次々につながり、ネットワークをつくっている。一層的ではない。多層的(マルチレイヤー的)で、立体的である。(68頁)
このような<意味単位のネットワーク>を進むことを、私たちはごく一般的に「考える」と言っている。(68頁)
高田:情報の道が多層にダイナミックにできるんですね。同じ道筋しか辿れないと見方も留まりそうで怖いなぁ。一方で、飲み物を容れる入れ物というコップの機能や概念を揺り動かし、別様のコップに<乗り換え>るという方法に焦がれます。情報をみるとき、つい「これって一体何の役に立つの?」とやりがちですが、それよりも、情報にアフォードされ、「注意のカーソル」を意識的に動かす方が発見的ですね。未知の情報でも、「地」や来し方を見る。そうすれば、その情報はどのように必要な知なのか、それはなぜなのか。見方づけを言葉にしていけそうな気がします。
松岡校長、対談させていただいてありがとうございました。
■「知」を起こしていく稽古へ
われわれは自然界の本来の情報を変形して知覚しているのであって、加工した自然像しか見ていないのだということにある。
私たちが情報を受け取るとき、既に加工編集された状態がある。そのプロセスに無頓着なまま情報を速く大量に消費しつづけている社会でもある。既に動かなくなった知識が「知」ではないことも改めて判ってきた。
編集学校のバイブルである『知の編集術』(講談社現代新書)と前出の『知の編集工学』。タイトルの「知」には、松岡校長が「遠慮しないで、おおいに情報を動かしてほしい」と思いをこめたのではないか、と思いを馳せる。その意を汲むように、43[花]の入伝生たちは【001番:コップは何に使える?】の回答から「学ぶモデル」を読み解く演習をする。入伝生M・Nは、「その人を分析するというよりかは、何に向かっていったのか、お題にどう向き合おうとしたか、何を表現しようとしたか、動向になるべく意識を向けてみました」「まさに、地が違う、ですね~」と思考の跡を方法的に読み解いた。「やるねぇ」とニヤリとする校長がうかんだ。
文・アイキャッチ/高田智英子(43[花]錬成師範)
【第43期[ISIS花伝所]関連記事】
●43[花]習いながら私から出る-花伝所が見た「あやかり編集力」-(179回伝習座)
●『つかふ 使用論ノート』×3×REVIEWS ~43[花]SPECIAL~
●『芸と道』を継ぐ 〜42[花]から43[花]へ
●位置について、カマエ用意─43[花]ガイダンス
●フィードバックの螺旋運動――43[花]の問い
●<速報>43[花]入伝式:問答条々「イメージの編集工学」
●43[花]入伝式、千夜多読という面影再編集
イシス編集学校 [花伝]チーム
編集的先達:世阿弥。花伝所の指導陣は更新し続ける編集的挑戦者。方法日本をベースに「師範代(編集コーチ)になる」へと入伝生を導く。指導はすこぶる手厚く、行きつ戻りつ重層的に編集をかけ合う。さしかかりすべては花伝の奥義となる。所長、花目付、花伝師範、錬成師範で構成されるコレクティブブレインのチーム。
43[花]特別講義からの描出。他者と場がエディティング・モデルを揺さぶる
今まで誰も聴いたことがない、斬新な講義が行われた。 43花入伝式で行われた、穂積晴明方源による特別講義「イメージと編集工学」は、デザインを入り口に編集工学を語るという方法はもちろん、具体例で掴み、縦横無尽に展開し、編 […]
(やばい)と変な汗をかいたに違いない、くれない道場の発表者N.K。最前列の席から、zoomから、見守ることしかできない道場生は自分事のように緊張した。5月10日に行われた、イシス編集学校・43期花伝所の入伝式「物学条々 […]
発掘!「アフォーダンス」――当期師範の過去記事レビュー#02
2019年夏に誕生したwebメディア[遊刊エディスト]の記事は、すでに3800本を超えました。新しいニュースが連打される反面、過去の良記事が埋もれてしまっています。そこでイシス編集学校の目利きである当期講座の師範が、テ […]
花伝所では期を全うした指導陣に毎期、本(花伝選書)が贈られる。41[花]はISIS co-missionのアドバイザリーボードメンバーでもある、大澤真幸氏の『資本主義の〈その先〉へ』が選ばれた。【一冊一印】では、選書のど […]
使いなれぬスターティングブロックに足を置き、ピストルが鳴る時を待つ。入伝式の3週間前である2025年4月20日に開催された、43期花伝所のガイダンス。開始5分前の点呼に、全員がぴたりとそろった。彼らを所長、花目付、師範た […]
コメント
1~3件/3件
2025-06-10
この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。
2025-06-10
藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。
2025-06-06
音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。