危機に乾坤二擲 “DUST宣言”と“DUSTライター募集”

2020/06/10(水)10:08
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遊刊エディスト黎明期、井ノ上シーザーはDUST記事を書き飛ばした一方で、記事のネタが尽きることを憂慮していた。

他方、編集部には「記事の内容は内輪受けではないか」という意見が寄せられていた。
この状況を踏まえ、シーザーは遊刊エディスト編集部メンバーに向けて「DUST宣言」を投げかけた。
現在、遊刊エディストは豪華ライター陣のコンテンツで彩られている。だが、2019年10月には危機をむかえていたのだ。
今回はその時代の空気を明かすべく“DUST宣言”の骨子を紹介しよう。

 

◇◇ DUST宣言 ◇◇
まず、「遊刊エディスト」の「これって内輪ウケじゃね?」という疑問は、当初かあった。
とは言え「編集学校周りで起こっていること」のプロセスごとの発信はあり得るとも考えていた。

 

例えば、寺山修司の劇団「天井桟敷」が発行していた新聞は、「寺山修司と天井桟敷に関心のある人」向けの宣伝のために発行されていた。
寺山も寄稿はしているが、大部分の記事は劇団関係者による。「芸術論」から「劇団員にアルバイト先を斡旋してください」まで、その内容は雑多だ。
関心のない人には「内輪ウケじゃね?」とはなり得るが、やはり後世に残る資料としての価値はある。「面白い・強烈な個性の“人”」が、「面白い・強烈な“出来事”“対象”」を、「面白く・強烈に“書く技術”」で、書かれているからだ。
この条件を遊刊エディストに敷衍すると、編集学校周りの出来事は面白くなければならないし、執筆者はキャラを立てて、ライティング技術を持つ必要がある。

 

DUST記事は必要か不要か、と問われれば「必要」ということになる。
編集学校周りの些細なエピソードを連ねることで、遊刊エディストに彩りを加えられる。それは本流であってはいけない。目指すは「どうでもよいことを取り上げる」「しかも読んでいて面白い」というポジションだ。
「面白いキャラの人が、どうでもよいことを、面白く書いている」モデルとして『中島らもの明るい悩み相談室』(集英社文庫)がある。「なぜ男性のズボンのチャックを『社会の窓』と呼ぶのか」といったどうでもよい問題について、虚実織り交ぜながら語る。
人生相談といえば、北方謙三氏の『試みの地平線』(講談社文庫)は、悩める青少年に次のような爆発的な回答をしていた。

 

★悩み「彼女に振られた」⇒☆回答「ソープに行け」
★悩み「生きている意味が分からない」⇒☆回答「ソープに行け」
★悩み「江口洋介のような髪形になりたい」⇒☆回答「カツラをかぶれ」

 

書き手の個性が、コンテンツが成り立つ「地」を破壊している。ここにはDUST文化の極北が見える。

 

ここで、重要な問題提起をする。
井ノ上シーザーは、DUST記事で周囲の編集学校関係者のエピソードを取り上げてきたが、すでにネタ切れになっている。DUST記事は頻繁に更新するものでもない。しかし、このままではDUST欄の存続自体が危ぶまれる。この点、遊刊エディスト編集部に危機感が全くないことに憤りを覚える。そこで声を上げ、立ちあがる。

 

1)DUSTライター募集!
  井ノ上シーザーと共に、DUSTの地平を切り開く人材を、募集する。

2)DUSTネタ募集!
  ネタをDUSTライターで吟味をし、記事に仕立てる。
  DUSTネタたるもの、「人間の業の肯定」を元としたい。
  ゴシップ的な要素はありますが、シャレにならない事態まで招いてもいけない。

 

DUST記事のあり方について、もう一度述べよう。

  ※DUST記事は、本流であってはならない。量産の必要もない。
  ※DUST記事は、編集学校周りのどうでもよいことを、面白く書く。
  ※DUST記事は、人間の業の肯定に基づき、ほどよく人や対象をいじる。


志あるエディストの参加を、心待ちにしている!

 

井ノ上シーザー

 

◇◇

 

この記事の背景には。もう一つの事情がある。
井ノ上シーザーは“DUST王”とまで呼ばれていたが、最近はすっかりを書けないスランプ状態だ。
他方、DUST欄では堀江純一さんの「マンガのスコア」シリーズが絶好調だ。
このままでは、DUST王は過去の称号になってしまう。

 

ここに、井ノ上シーザーは愛と無駄に満ちた「DUST宣言」を思い返し、初心を取り戻そうとしているのであった。

 

 


(松岡校長から頂いた「番諧獅匠」の書)

 

 

 

  • 井ノ上シーザー

    編集的先達:グレゴリー・ベイトソン。湿度120%のDUSTライター。どんな些細なネタも、シーザーの熱視線で下世話なゴシップに仕立て上げる力量の持主。イシスの異端者もいまや未知奥連若頭、守番匠を担う。

コメント

1~3件/3件

山田細香

2025-06-10

 この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
 建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

山田細香

2025-06-10

 藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。

堀江純一

2025-06-06

音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。