『つかふ 使用論ノート』×3×REVIEWS ~43[花]SPECIAL~

2025/04/20(日)08:15
img NESTedit

 松岡正剛いわく《読書はコラボレーション》。読書は著者との対話でもあり、読み手同士で読みを重ねあってもいい。これを具現化する新しい書評スタイル――1冊の本を3分割し、3人それぞれで読み解く「3× REVIEWS」。

 今回は3月に行われた第86回感門之盟「EDIT SPIRAL」にて、42[花]指導陣に贈られた花伝選書『つかふ 使用論ノート』を取り上げる。選者であるISIS花伝所の田中晶子所長いわく、「言葉は時空を超える究極の型。一語の遍歴にみえる相互の感応、支えあいこそ “日本という方法” ではないか」。

 43[花]で新ロールを担う3人のそれぞれのヨミトキを重ねたい。


 

『つかふ 使用論ノート』××REVIEWS 〜43[花]SPECIAL〜

 

境界を摩耗し、思惑を削る

 はじめに 使い、使われて

 Ⅰ 「つかふ」の原型

 Ⅱ 技倆――《用の美》から《器用仕事》へ

 

「つかふ」は、「使ふ」だけでなく「仕ふ」も「遣ふ」もある。様々な「つかふ」のなかで、トップバッターの古谷奈々は、何に着目したのだろう。

 暮らしに欠かせないスマホ。使い方は簡単だ。指先で押して、滑らせるだけ。使っても使っても上手くならない。即日使える便利ツールは習熟や熟達を愉しむ過程を奪っている。
 もともと日本は、ナイフ・フォーク・スプーンではなく、箸を愛用してきた。一膳で、切り、取り、掬える。機能分化を選ばなかった道具は、人にその役目を負わせる。反復を通じて機能を使い分け、加減が身に付く。
 当初は使いづらい。動きはぎこちない。この異物感が上達への欲望をキックする。使用を繰り返す中で、道具と人の間にある異質性が摩耗する。自ずと感覚は道具の先端に移り、ふるまいが滑らかになる。主体の思惑や無駄な動きが削ぎ落とされ、道具はわたしの一部になる。これが、「つかふ」という方法だ。
(古谷奈々:43[花]わかくさ道場/花伝師範)


つかいつかわれ、生きた場をうむ

 Ⅲ 使用の過剰――「使える」ということ

 Ⅳ 「つかふ」の諸相(スケッチ)

 

古谷は使用の繰り返しの先に「道具の身体化」をみた。それはまるで、「型」の身体化のようでもある。では2番手の大濱朋子は、その身体化を何につなげたのか。

 道具や人をつかうことにも、家畜を人力の代用や食用としてつかうことにも、「使う/使われる」という一方向的でない使用の関係があると著者はいう。とりわけ人のいのちに牛のいのちを移す行為(屠畜)では、戯れも弄びも許されず互いのへだたりさえなくなる。それはまるで、主客の入れ替わりと共に相互に差し出しまじり合う「学ぶ/教える」の関係のようだ。
 人がつかう言葉には、「心の陰翳」があると福田恒存はいう。言葉は単なる記述ではない。言葉づかいは、身体に触れるかのような緊張を伴うふるまいである。互いの存在を確認し合うかのような言葉の交換がなされる時、そこには生きた場がうまれる。これが、「つかふ」という方法だ。
(大濱朋子:43[花]むらさき道場/花伝師範)

 

わからないまま、持ち続ける

 Ⅴ 使用の両極

 おわりに

 あとがき

 

大濱は「使う/使われる」の関係を生きた場につなげた。3番手の角山祥道はあらめて「つかふ」を俯瞰する。「つかふ」という方法が、私たちに示す南とは。

 そうか「つかふ」とは「タイパ」の逆なのか。人々は文明進化の過程で「つくる」手間を省いて、「つくられた」ものの購入と消費に関心を移した。買う→飽きる→捨てるの三間連結には時間が存在しない。著者は、「ブリコラージュ」という方法に目を向ける。この方法の根底にあるのは「いつか役に立つかも知れない」という待ちの姿勢だ。そしてある時、思いもよらない使い方によって、使用者の自己更新が起きる。言い方を換えれば「まだ使えるんじゃない?」と思考にとどめ置くことが、明日のアップデイトに繋がるのだ。何に使うかも役に立つかも“わからない”ものを持ち続ける。これが、「つかふ」という方法だ。
(角山祥道:43[花]くれない道場/錬成師範)

 

『つかふ 使用論ノート』

鷲田清一/小学館/2021年1月19日/2,000円(税別)

 

■目次

はじめに 使い、使われて

Ⅰ 「つかふ」の原型

Ⅱ 技倆――《用の美》から《器用仕事》へ

Ⅲ 使用の過剰――「使える」ということ

Ⅳ 「つかふ」の諸相(スケッチ)

Ⅴ 使用の両極

おわりに

あとがき

 

■著者Profile

鷲田 清一(わしだ きよかず)

1949年、京都生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得。大阪大学教授・総長、京都市立芸術大学理事・学長等を歴任した。京都コンサートホール館長に就任。2015年より朝日新聞1面にて、古今東西の多彩な言葉を届けるコラム「折々のことば」を連載中。主な著書には『分散する理性』『モードの迷路』『「聴く」ことの力』『「ぐずぐず」の理由』『顔の現象学』『メルロ=ポンティ 可塑性』『〈弱さ〉のちから』『「待つ」ということ』『哲学の使い方』『しんがりの思想』などがある。

出版社情報

 

× REVIEWS(三分割書評)を終えて

 「つかふ」とは「慣れる」を加減できること。便利ツールでは使い方の探求に向かえない。予測変換機能に依存すれば、言葉を捉え直せない。
 新しいロールに向かう三人は言葉を使って指導する。これまでの記憶を想起し、別の何かと関連づけて、新たな見方や方法をつかむ。それを場に投じ、指導陣の共有知にする。第43期[花伝所]の使用論ノートづくりが進んでいる。(古谷奈々)

  • イシス編集学校 [花伝]チーム

    編集的先達:世阿弥。花伝所の指導陣は更新し続ける編集的挑戦者。方法日本をベースに「師範代(編集コーチ)になる」へと入伝生を導く。指導はすこぶる手厚く、行きつ戻りつ重層的に編集をかけ合う。さしかかりすべては花伝の奥義となる。所長、花目付、花伝師範、錬成師範で構成されるコレクティブブレインのチーム。

コメント

1~3件/3件

山田細香

2025-06-10

 この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
 建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

山田細香

2025-06-10

 藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。

堀江純一

2025-06-06

音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。