この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

吉原の灯が妖しく揺れ、路地裏では密やかな囁きが交わされる。権力と欲望が絡み合う闇の中で、誰もが己の欲望を隠す「鱗」をまといながら生きている。しかし、一度その鱗が剥がれ落ちれば、露わになるのは生身の本性。それが純粋な信念なのか、それとも汚れた欲望なのか。
それは時に自らを蝕み、時に他者を傷つける刃となる。
大河ドラマを遊び尽くそう、歴史が生んだドラマから、さらに新しい物語を生み出そう。そんな心意気の多読アレゴリアのクラブ「大河ばっか!」を率いるナビゲーターの筆司(ひつじ、と読みます)の宮前鉄也と相部礼子がめぇめぇと今週のみどころをお届けします。
第6回 「鱗(うろこ)剥がれた『節用集』
NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の第6回は、一見すると商業的な偽版問題を巡るエピソードのように見えます。しかし、この回が真正面から描いているのは、人間が社会の中でまとう「鱗」という虚構と、その剥がれる瞬間に明らかになる本質です。この「鱗」というモチーフを軸に、キャラクターたちの心理的葛藤、そして人間の持つ「影」の部分が浮き彫りにされます。
「鱗」とは何か?——人間がまとう虚構の鎧
「目から鱗が落ちる」という言葉があるように、本作では「鱗」が剥がれることで、主人公・蔦屋重三郎は自身の本質と向き合うことを余儀なくされます。それまでまとっていた「鱗」が剥がれることで、隠されていた真の姿が露わになり、否応なく自己を直視する瞬間が訪れます。それは、人間の持つ「光」と「影」のコントラストを際立たせる象徴的な
出来事でもあります。
「鱗」とは、本来、魚や龍が身を守るための防御器官です。それは外部からの攻撃に対して自分を保護する鎧であり、剥がれることで内部の柔らかい部分が露呈するものでもあります。
人間社会において、この「鱗」は象徴的な意味を持ちます。人は自らの弱さや本音、欲望を隠すために「鱗」をまとい、社会における居場所を確保しようとします。しかし、状況が変われば、その「鱗」は役に立たなくなり、時に剥がれ落ちることもあります。
物語冒頭で登場する「金々(きんきん)」と呼ばれる男たちは、流行の髷を結い、引摺りの着物をまとい、粋な遊び人のように振る舞いながら吉原を闊歩します。しかし、彼らの「鱗」はあまりにも薄っぺらく、少しの衝撃で剥がれ落ちてしまうものでした。遊女たちは彼らの虚飾を見抜き、冷ややかな目であしらいます。それでも、彼らは「本物」のように振る舞うことで、少しでも周囲の承認を得ようとするのです。
崩れゆく虚構——鱗形屋孫兵衛の終焉
本回の中心となるキャラクターが、版元・鱗形屋孫兵衛です。彼は、吉原随一の版元として知られていましたが、その裏では偽版を密かに制作し、不正な利益を得ていました。彼の中には「正規の版元」という表の顔と「偽版を扱う闇の商人」という裏の顔がありました。
しかし、長谷川平蔵による捜査によって鱗形屋の偽版が暴かれ、彼の「鱗」は剥がされます。「鱗」を剥がされた商人は、もはや社会という大海では生きていけません。鱗形屋が自分の息子とともに捕らえられるシーンは視聴者の心を揺さぶります。息子が父に追いすがろうとする姿、そしてその状況を沈痛な表情で見つめる主人公・蔦屋重三郎……。
重三郎は鱗形屋の偽版に気づいていながらも、それを密告しませんでした。もし彼が告発していれば、鱗形屋の息子の人生を破壊したのは、重三郎ということになります。重三郎自身もまた、自らの選択の影響を強く感じているのです。
重三郎の葛藤——「影」との対峙
ここで思い出したのが、心理学者カール・ユングのシャドウ(影)の概念です。ユングは、人間の無意識には「影」と呼ばれる、自分でも認めたくない部分が存在すると指摘しています。それは、抑圧された欲望や欺瞞、権力への野心といったものです。
重三郎が鱗形屋を密告しなかった理由は、まさに自分の中にも「影」があることを直感的に理解していたからでしょう。鱗形屋を落とし入れることで自分の立場を強めることは可能でしたが、彼はそれを選びませんでした。むしろ、自分の中の野心と、それに伴う後ろめたさに苛まれていたのです。
「(摘発される可能性があることを)なぜ言ってやらなかったんだ」
摘発した長谷川平蔵の問いかけに、重三郎は光溢れる通りから、建物の影の中へと歩み入ります。
「そりゃあ、心のどこかで望んでたんですよ」
この場面のカメラワークは、重三郎の「影(シャドウ)」が顕在化する瞬間を強調しています。光から影へ。明るい世界から、闇の中へ。その移動は、彼の心の中に生まれた「変化」を視覚的に表現しています。
そしてカメラは、重三郎の顔をアップにします。彼の口元には、自嘲気味の乾いた笑いが浮かんでいますが、その目は笑っていません。
「こいつ(孫兵衛)がいなきゃあ、取ってかわれるって」
重三郎の手は、鱗形屋の看板に添えられています。それは、看板をかけ替えようとしているような仕草です。鱗の旦那がいなくなれば、俺が版元になれる……。彼もまた鱗形屋と同じように、「鱗」の下に「影」を隠していたのです。そして、この摘発で「鱗」が剥がれたのは鱗形屋だけではありませんでした、重三郎もまた「鱗」を剥がされ、その内面が剥き出しになり、苦痛に喘いでいたのです。
甘き報酬、苦き余韻——粟餅に滲む後悔
「俺は上手くやったんすよ。けど上手くやるっていうのは堪えるもんすね」
「鱗」を剥がされた痛みに苛まれ、弱音を吐く重三郎に、長谷川平蔵は粟餅を差し出します。「濡れ手で粟」「棚から牡丹餅」いずれも、思いがけない利益を指す言葉です。そして、重三郎が受け取ったのは、それらを一種合成した粟餅でした。この粟餅という要素は、重三郎が図らずも得てしまった利益が、べらぼうに大きいことを強調しています。
「せいぜい有り難くいただいとけ。それが粟餅を落とした者へのたむけってもんだぜ」
ここで、哀愁に満ちたレクイエムのような旋律が流れます。大きな利益も得たというのに、まるで葬送のようです。
そして次のカットでは、重三郎を背中から捉えます。光の世界から、影の世界に佇む重三郎の背中を見つめる、という構図です。
「濡れ手に粟餅、有り難くいただきやす!」
意を決して、重三郎は険しい顔で粟餅をほおばります。その大きめの咀嚼音が、倫理的妥協の代償としての心痛を強調します。
カール・ユング『アイオーン』には、次のような記載があります。
影(シャドウ)は自我全体に道徳的挑戦を突きつける問題である。
誰も重大な道徳的努力なしに影を意識化できない。
重三郎は、道徳上の心痛に耐え、自分の中の「影」を意識し、ついにその「影」を飲み込みました。「影」を受け入れた彼は、もはや以前の重三郎ではありません。哀愁に満ちた旋律は、重三郎がこれまでの自分を手放したことを暗示しているのでしょう。
ひび割れ始めた「鱗」——田沼意次の危惧
そして幕府にも、「鱗」をまとって出自の悪さという「影」を覆い、幕府での居場所を確保した者がいます。言わずと知れた田沼意次です。
田沼意次は、商業の発展を促し、財政難にあえぐ幕府を立て直そうとしていました。彼にとって、商人の力を利用することは「武士の力を高める手段」であり、幕府を支えるための現実的な政策でした。しかし、その方法は忠義と武威を尊ぶ朱子学の思想とは相容れず、旧来の幕府体制を支持する者たちから激しい反発を受けていました。
特に、次期将軍・徳川家基は彼を強く敵視していました。
「家基は、余はそなたの言いなりで、そなたは幕府を骨抜きにする
成り上がりの奸賊であると考えておる」
現将軍・徳川家治は、そう田沼に忠告します。
家治の庇護のもとで権力を掌握していた田沼でしたが、家治から家基に代が変われば、田沼派は排除される危険があるということです。その瞬間、カメラは田沼の顔を捉えます。
「奸賊」という言葉に、怒気と苛立ちが一瞬、彼の顔を支配します。しかし、すぐに呼吸を整えるようにまぶたを伏せ、冷静さを取り戻し、微かな自嘲の笑みを浮かべながら、「成り上がりは、否めませぬが」と低く呟きます。
その言葉の奥には、彼自身が鍛えてきた「鱗」にひびが入りつつあることへの自覚があったのかもしれません。
「鱗」を剥がされて失墜する者がいる。逆に、「鱗」をまとうことで活路を見出す者がいる。そして、剥がされまいと画策する者もいる。
本回は、この「鱗」の”剥がし剥がされ”に人間の生が大きく左右されることを見事に描き出しています。
「鱗」が剥がれたとき、人は本当の自分と向き合うべきなのか、それとも、内面を守るために新たな虚構をまとうべきなのか。その答えは、粟餅を味わい尽くした者だけが知るのかもしれません。
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十七
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大河ばっか組!
多読で楽しむ「大河ばっか!」は大河ドラマの世界を編集工学の視点で楽しむためのクラブ。物語好きな筆司たちが「組!」になって、大河ドラマの「今」を追いかけます。
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2025-06-10
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2025-06-10
藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。
2025-06-06
音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。