未知奥声文会、仏教とアジアを語る

2020/05/15(金)10:33
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2019年10月13日、未知奥声文会は仏教とアジアを中心に交わし合いをした。
ネット会議の終わり際に、林、井ノ上、花岡は、離想郷ラウンジにレポートを挙げることとした。

今回は、そこで垣間見られた、各メンバーの「場所と記憶に関するこだわり」を紹介する。

 

……まずは、「易」「ラテン語」「太極図」と連想を広げた林愛(10[離]道然院)より。

 

◆易の英訳はCHANGE、その語源はcambireラテン語で「交換する」という意味だそうだ。
 やはり陰陽が蠢いて入れ換わるかのような太極図を思い出す。その太極図も、『易経』由来とのこと。

 易は常に入れ換わって動いていく自然の表現なのか、このあと文巻で触れられる風水のように。

 

 

 

              (太極図)

 

……そして、林は「易」から「風水」へと視線を動かす。

 

◆風水と言えば、鬼門とされる東北。

 しかし、ここから見たらもちろん「東北」ではない。

 自分たちの視座のままに「中原」と呼ぶ歴史を持てる土地と、別の場所からThereと捉えられた呼称で自らも名乗る土地。

 

……日本の東北人は、負の別称である「東北」を名乗ることに躊躇はしない。
  文明の覇者たる中国人は、居住地を天下の中央の地・「中原」と名づけた。
  この対比を見出した林は、結婚を契機に宮城県の気仙沼に移り住んだ。
  内と外を往来する、林の文化人類的な視座には今後も注目だ。

 

……井ノ上裕二(6[離]観尋院)は、北京の寺院とチベット仏教について語る。

 

◆北京には“雍和宮”というチベット寺院がある。
 そこでは歴代ダライ・ラマとパンチェン・ラマの肖像が対比的に置かれ(現ダライ・ラマ14世の肖像はない)、

 両者が交互に中国皇帝の精神的支柱の役割を果たしていたことがうかがわれる。

 中国とチベットは、政治的には“支配―従属”の関係にあったが、精神的には“精神的支柱―帰依”となり、

 重層的な関係があったと言える。

 良し悪しはともかくとして、現代中国はその関係を一元的なものにした。

 

 

(北京・雍和宮のレリーフ。多言語であることにも注目)

 

……チベット仏教と中国の政治をシステム的に見る井ノ上に対し、
  花岡安佐枝(6[離]観尋院)はジャータカ(仏教の本生譚)を説話的にとらえ、多重多層に意味を見出す。

 

◆タイでは(ディズニーの「ラプンツェル」のせいで、夜の熱気球揚げばかりが有名になってしまった)仏教のお祭り

(実際には精霊信仰も混淆していますが)「ローイクラトーン」があります。
 北タイでは、このお祭りのときの家の門に「プラトゥー・パー(森の門の意味)」という飾りを作りますが、

 これはジャータカの最後の物語「ヴェッサンタラ王子物語」にちなんだものです。
 妻子まで差し出す過激な布施行をし、身一つになって森に隠棲していたヴェッサンタラ王子が、都に帰還するのを祝って人々が

 王子がいた聖なる森になぞらえた門飾りを作った場面にマネんだそうですが、布施好きの王子を家へ呼び込む=幸運を呼ぶという、

 かなり現世利益的な意味もあるとか。
 原始仏教の狂と小乗の妙に現世利益な面とタイの人びとの利他性、身を削っても現世で徳を積もうとする骨がらみになった宗教の

 ものすごさ、個の社会的な死と再生などなど、喪失や放棄と報酬がかわるがわるに垣間見えるようでした。

 

(ヴェッサンタラ王子物語)

 

……内なる「あらわれ」が外なる「あらわし」に変わる(『擬』より)。
  家の門の飾りという「あらわし」から、かわるがわるにあらわれるメッセージを読み取る花岡であった。

 

……未知奥声文会は、月一回のスカイプによる開催を継続している。
  [離]を退院したすべてのメンバーに門戸は開かれている。

  • 井ノ上シーザー

    編集的先達:グレゴリー・ベイトソン。湿度120%のDUSTライター。どんな些細なネタも、シーザーの熱視線で下世話なゴシップに仕立て上げる力量の持主。イシスの異端者もいまや未知奥連若頭、守番匠を担う。

コメント

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山田細香

2025-06-10

 この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
 建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

山田細香

2025-06-10

 藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。

堀江純一

2025-06-06

音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。