この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

[守]の教室から聞こえてくる「声」がある。家庭の中には稽古から漏れ出してくる「音」がある。微かな声と音に耳を澄ませるのは、秋に開講したイシス編集学校の基本コース[守]に、10代の息子を送り込んだ「元師範代の母」だ。
わが子は何かを見つけるだろうか。それよりついて行けるだろうか。母と同じように楽しんでくれるだろうか。不安と期待を両手いっぱいに抱えながら、わが子とわが子の背中越しに見える稽古模様を綴る新連載、題して【元・師範代の母が中学生の息子の編集稽古にじっと耳を澄ませてみた】。第6回目のオノマトペは「いらいら」。え!? 何があったの?
【いらいら】
物事が思い通りにいかず、焦ったり腹を立てたりして、気持ちが落ち着かないようす。
『「言いたいこと」から引けるオノマトペ辞典』(西谷裕子/東京堂出版)
「えー、わからん! えー! どういうこと? もぉっ!!」
いつになく声を荒げ、キーボードを叩く音が聞こえる。
長男が取り組んでいるお題は、用法3「しくむ/みたてる」【020番:コンパイルとエディット】だ。時刻は22時になろうとしている。母は「もう明日にしな」と声をかけるが、どうしても今日中に回答をしたいらしい。明らかにイライラとした様子で、何度もお題の意味を聞いてくる。口から出てくる言葉もだんだんと荒くなっていった。
「はぁー、もう、わっかんない。もうわかんないから寝るわ」と言ったそばから、「あー、なんで自分こんなことやってんの。もー!」と叫ぶ。続けて「お題の一個一個の言葉の意味はわかるけど、文章になったら全くわからない。それに64編集技法って何なの! なんでいちいちこんなむずかしい言葉を使うの! こんなんに時間を使っているのが嫌。一瞬で理解したい」。長男の困難との遭遇に、母は目を閉じた。
検索窓に言葉を入力すれば、数秒で大概の情報が手に入る時代だ。生成AIの登場は、物事をはやく進める後押しをした。しかし、このはやさを誤解すれば、人から考える時間を、問いが生まれる兆しを奪うことになりかねない。瞬時にわかったという錯覚だけが重ねられれば、シミもザラつきも記憶の森に残さない日々を、過ごすことにならないだろうか。そうではいけないと母は思うが、それでいいとする世の中もあることを最近は感じる。中学2年生の長男もそんな世の中で生きている。先ほどの「一瞬で理解したい」という長男の言葉は、このことを象徴しているように思えた。
加えて学校の授業は、時間で区切られ、教科で分けられ、評価のための単元テストがあり、単元ごとになんらかの理解をしなければいけない。その時々にわかるということは大切だが、たとえわかりにくいことがあってもわからなさを抱えたまま、それでもその奥へ進みたいと思えるようになってほしいと母は思う。長男は通常の授業では出会わない『問い』に、大いなる戸惑いを抱いているようだった。
すべてのものを『情報』として扱う編集工学では、情報を人によって解釈の変わらない【データ】と解釈自由度の高い【カプタ】の2つに区別する。長男が戸惑っている020番【コンパイルとエディット】は、お題にある言葉をデータを扱う【コンパイル的定義】と、カプタを扱う【エディティング的定義】にして回答せよというものだ。
長男の稽古模様にじっと耳を澄ませていると、そもそもよくわからない言葉もあるようだった。とりあえず、わからない言葉については、辞書で調べることにしたらしい。そして、わかりやすく、納得したものをコンパイル的定義とした。難解なのはエディティング的定義だ。エディティング的定義では、個人的な記憶を持ちよって解釈を綴ってよい。長男は小学生の頃、毒に興味を持っている時期があった。悩んだあげく、そのことをヒントに、お題である薬のエディティング的定義を回答した。
さらに020番のお題では、自分が書いた文章から【64編集技法】を取り出すことになっている。64編集技法とは、[守]基本コースの全受講者が手にする松岡正剛著書『知の編集術』(講談社)でも紹介されている、あらゆる編集手法を64の項目にしたものだ。
回答手順に混乱した長男は、編集64技法の説明も求めてきた。まずは、[編纂]と[編集]があること。エディティング的定義では、[編集]の技法がいくつも使われていること。例えば、虹の色の名をつらねることは【列挙】。わざとおもしろおかしく言ってジョークにすることは【諧謔】。などなど。少しだけ解説すると「あっているかどうかわからんけど、こんなんでいいの?」と何度も確認しながら、キーボードを叩いていた。不安なのだろう。答えのない問いというのは、母が思っている以上に心をかき乱すようだった。そういえば、母もコンパイルとエディットでは、休日の朝から晩までをついやしながら、わからなさにまみれ悶えた記憶がある。
「わからない」というもどかしさに胸をかきむしる。そこには「わかりたい」という渇きがあると思いたい。それはとても人間的な営みだ。だから「わかる」ということが困難な時、人は様々な反応を表すのだろう。諦め、苛立ち、攻撃、不安。それらは、マイナスなエネルギーとして忌み嫌われることが多いが、見通しのよい舗装された平坦な道にはないひずみだ。時にアスファルトの割れ目にもなる。また、そこから生え出る雑草のように、生命力に溢れた感情なのではないだろうか。しかし、検索窓で得られる瞬時にわかったという錯覚に慣れると、人間的な感情に耐えられず、思考を放棄することがあるように感じる。
諦め、苛立ち、攻撃、不安という一通りの反応を終えると、長男は静かにモニターに向かっていた。何かを乗り越えたのかなと少しだけ安堵する。しかし、彼のパソコンの画面をのぞいた母は、自分の目を疑った。そこはすでに自作のゲーム画面に変わっていた。
「切り替え、はやっ」
母は心の中でつっこんだ。
(文)元・師範代の母
◇元・師範代の母が中学生の息子の編集稽古にじっと耳を澄ませてみた◇
#06――いらいら(現在の記事)
エディストチーム渦edist-uzu
編集的先達:紀貫之。2023年初頭に立ち上がった少数精鋭のエディティングチーム。記事をとっかかりに渦中に身を投じ、イシスと社会とを繋げてウズウズにする。[チーム渦]の作業室の壁には「渦潮の底より光生れ来る」と掲げている。
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2025-06-10
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2025-06-10
藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。
2025-06-06
音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。