【追悼】未完の編集装置 校長・松岡正剛の面影ISIS

2024/08/21(水)14:11 img
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 イシス編集学校 校長・松岡正剛が8月12日に永眠した。
 穿たれた空隙のあまりの大きさに立ちすくみそうになる。在りし日の姿を思うにつけ、感傷に攫われそうになる。未知の航路への羅針盤を喪って、ただただ途方に暮れそうになる。校長なら言うだろう。さっさとやりなさいと。校長の不在を機会にしなさいと。
 次の一歩を踏み出すために、新たな編集を始めるために、7月2日、校長に最後に会ったときの言葉を綴っておきたい。

 

 これからは新約、大乗の時代だからね。病室を訪れた私の顔を見るなり、ニヤッと笑って開口一番だった。新約聖書の時代、大乗仏教の時代。イエスの没後、パウロによって新約は編集され、ブッダ入寂ののち仏弟子らの手で仏典結集はなった。キリストや釈尊がいかに偉大であっても、あとに続く編集者たちの勇猛果敢がなければ、その面影を伝えることはできなかったであろう。
 松岡正剛が遺したものは1850夜に及ぶ千夜千冊、25周年を迎えたイシス編集学校だけでも十分過ぎるくらいある。さらにORIBE、NARASIA、近江ARSの地域プロジェクト。松丸本舗、近畿大学ビブリオシアター、角川武蔵野ミュージアムのブックウェア空間。「遊」時代から現在に及ぶ著作文章群。中途のままになった目次録、図書街、OPERAプロジェクト、編集工学エンジンやインターフェイスの構想。有名無名の松岡正剛を慕う人たちのネットワーク。書や戯画、デザインなどのアートワーク。ディレクションやレジュメなどの膨大なメモ。これらが一人の「松岡正剛」という人間の中に統合されていた。
 「創」とは倉に刀を入れることであって、アーカイヴにキズをつけて、編集しないといけないと、常々校長は語っていた。すでに松岡正剛のテキストやレクチャー、アーカイヴは無数にあるわけだから、どう編集するかは私たちに託された。

 

 実はお見舞いといっても、校長のディレクションをもらうための訪問だった。25周年感門之盟の仕立て、多読アレゴリアの準備、伝習座のニュースタイル、ISIS co-missionのこれから。体調も思わしくないなかだから、一言任せたよと言われるかとも思っていたが、事前に渡しておいてもらった4つのペーパーにはぎっしり赤が入っていた。
 一つ、感門之盟のタイトルは「25周年番期同門祭」だけ。サブタイトルなしに「25周年番期同門祭」に絞ったということは、校長が今回の感門をイシス編集学校の面々が一挙集う機会にしてもらいたいという強い思いがあったからだろう。
 一つ、伝習座は新しい伝統をつくるつもりでやりなさい。それには、編集学校の皆が出入りする姿が外へ飛んでいくように見えてほしいと強調された。
 最後に一言、「松岡の欠如を生かす。文学的、映画的手法でオペラチックに演出してもらいたい。よろしく」。

 

 校長の欠如。松岡校長が大事にしていた言葉に「面影」がある。『見立て日本』のラストにも、『日本という方法』のサブタイトルにも「面影」が入っている。松岡校長は本当に面影になってしまったが、私は生前からずっと校長の面影を追いかけながら編集し続けてきたように思う。
 千夜千冊エディション『面影日本』の追伸では、「面影とは、大事な「もの」や「人」や「こと」がその場にないのに(いないのに、失っているのに)、それなのに当のイメージが懐かしくも、深くも、さまざまな価値観の選択をともなって浮かんでくることをいう」とある。
 そう。面影は「ない」からこそ、いつでも会える、どこでも甦る。「ない」がゆえに近づいても触れられない。だからもっともっと近づきたくなる「未完の編集装置」なのだ。『面影日本』ではこう続く。「たんに思い出に耽っているのではない。ヴァーチャルな面影を追う。そのほうが、リアルなコミュニケーションをしていたときよりずっと本来的になれるということなのだ」。


 「みんなは編集学校のこれからを心配しているようだが、僕は全く心配してはいない。すでに陣容は揃っている」。校長が残した手記にはそう記されていた。校長はいつも、どんなことが起こっても、次の編集をいかに興すかに向かっていた。そして、僕らがどんな編集アクションを起こせるか、その一挙手一投足を見ていた。
 校長が遺したお題と面影は、永遠の編集エンジンとして、私たちといつも一緒にある。そして、もっとずっと近くになった。こんなあまりにもな大悲劇こそ大チャンスにしろと、校長なら言うだろう。今すぐ編集を始めなさいと、校長が背中を押してくれている。

 

  校長 松岡正剛へのつきない感謝と追慕を込めて  林頭 吉村堅樹

 

 

  • 吉村堅樹

    僧侶で神父。塾講師でスナックホスト。ガードマンで映画助監督。介護ヘルパーでゲームデバッガー。節操ない転職の果て辿り着いた編集学校。揺らぐことないイシス愛が買われて、2012年から林頭に。

コメント

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山田細香

2025-06-10

 この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
 建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

山田細香

2025-06-10

 藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。

堀江純一

2025-06-06

音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。