52[破]、“ホンモノの物語”を生む関心領域

2024/06/28(金)13:00
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 52破別院に、第2回アリスとテレス賞の概要が発表された。対象となるお題は〈物語編集術〉である。細かなルールを駆使して観客の類推をねらったイメージへと導く映画の方法に肖り、テキストベースの新たな物語を書く、たいへんクリエイティブな方法だ。これが楽しみで破に進んだという学衆も多いだろう。
 だが、過去期を通じて課題となっているのが、翻案の「焼き直し問題」である。もとの映画の読み取りに忠実であればあるほど、新たに書かれた物語がレプリカめいてつまらなくなってしまう。どんな翻案ならば、読み手に「ホンモノ感」を手渡すことができるのだろうか。

 四一・一・二五教室の束原俊哉師範代は、伝習座での物語編集術レクチャーが気になっていた。過去期にアリストテレス大賞を受賞した作品について、インタビュー形式でプロセス解説を行なうというものである。未知の生命体「エイリアン」が人類の好奇心によって平和な環境に持ち込まれ、人々を内側から破壊するという映画の読み解きが、維新後の日本を舞台に、急速に変容する文字文化をテーマにした物語へと編み直されていた。クライマックスにおける主人公の独白は、作者が初めて携帯電話を手にした頃に体験したという、文字にまつわるつらい記憶と結びついていることを知った。
 「関係性にほんものが潜む」という白川雅敏番匠の記事にも共感した。映画『PERFECT DAYS』に淡々と描かれた清掃夫の日常からも、読者や観客は蓄積した記憶を想起し、作品世界を読み解いていることが垣間見えた。
 束原師範代は言う。一読して理解できなくても、読者や観客が経験を重ねて想起できる記憶を増やしたときに新たな発見をもたらすものは、その人にとって良い作品といえる。作品を表象する側としては、読者に思いがけない発見を促すことが快さにつながる。「作品と自分の関係」は「発見度合いの関数」なのだ、と。

 一方、ポンヌキ和華蘭教室の渋谷菜穂子師範代には、「関心のエリアが狭くなっているのではないか」という、伝習座での岡村豊彦評匠の叱咤激励が響いていた。翌日さっそく、『関心領域』という映画を観に行った。何が本物か分からなくても、それに出会う機会を増やすため、自分から行動を起こそうという決意のあらわれだった。
 渋谷師範代は言う。『関心領域』は、ホロコーストをテーマにした類作『シンドラーのリスト』と異なり、背景の説明が伏せられている。そのため観客側が主人公の着るものから、時代性を読み解く(想起)する必要があった。卍からナチスを想起し、川上から流れてくる黒い灰は焼かれたユダヤ人のものと想起し、ストーリーを観客側が埋めていく必要があった。もし観客側に第二次世界大戦やナチスの知識がなければ、ただの幸せなドイツ人家族の日常を見せられる、退屈な映画になってしまう。フィルターバブルが人々の関心を狭い領域に押し込めてしまっているのが、現代の恐ろしさ。今後どういう世界がつくられていくのか、映画のメッセージが与える余白について考えさせられた。受け手に自分の関心領域を広げてもらうには、作品の中で何か「ひっかかり」を相手にわたす必要がある、と。

 “ホンモノの物語”に関して二人が発見したことは、それぞれ「別々に存在するかのようにみえる世界をアナロジーでつなぐ編集」と「一枚の絵とみえる世界に潜む亀裂への気づきをアフォードする編集」だったといえるだろう。どちらも作品を編集するプロセスと鑑賞するプロセスが、ぴったりと対になっていることにお気づきだろうか。作者が何かを連想でつなごうとするとき、鑑賞者はそれらが別々のものであったことを思う。作者がざらついた亀裂を匂わせるとき、鑑賞者は何かの重大なつながりにハッとするのである。
 またそうした編集の意図が、ゆっくりと時間をかけて紐解かれていくというところもポイントになりそうだ。未知の情報に触れ、知識は血肉となり、やがて記憶の奥底に沈澱していく。そして長い年月の中で別の情報と出会い、幾度もありありと想起される。ここに立ち現れる必然への驚きが、季節を知って芽吹く若葉のような、本物の感動を生むのではないだろうか。

 〈文体編集術〉では、メディアという制約の中で伝えたい言葉を構成するプロセスを通して、自分でもどぎまぎするような尖ったメッセージに出会ってきた。続く〈クロニクル編集術〉では、あるテーマ史を背後で揺り動かし別の流れへと導いている動向が、ひたむきに人生を歩む自分の足裏にも蠢いていることを感じてきた。かけがえのない今、この時をあらゆる関係性の中で生きているという自覚こそ、[破]の鏡に映すべき自己像である。
 これまで手にしてきた編集的世界観を総動員して、あなたが世の人々に気づきを促したいのは、どんなつながり、あるいは亀裂だろうか。52破の学衆たちには、このお題に対してじっくりと向き合い、過去のどんな名作映画にも負けない“ホンモノの物語”を編んでほしい。

 

文:吉田麻子(52[破]師範)

アイキャッチデザイン:穂積晴明

  • イシス編集学校 [破]チーム

    編集学校の背骨である[破]を担う。イメージを具現化する「校長の仕事術」を伝えるべく、エディトリアルに語り、書き、描き、交わしあう学匠、番匠、評匠、師範、師範代のチーム。

コメント

1~3件/3件

山田細香

2025-06-10

 この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
 建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

山田細香

2025-06-10

 藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。

堀江純一

2025-06-06

音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。