「まなび」のゆくえ◆53[守]伝習座

2024/04/24(水)13:24
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イシス編集学校のかなめは人。元・図書館司書から人材育成へとキャリアシフトし、専攻したドイツ語から方法日本へと原点回帰するのは花伝所きってのビブリオテカール、41[花]師範の山本ユキ。大学院で「学びの見える化」を日々研究するポリロールな師範の目で、「まなびのヒミツ」をひも解いていきます。


 

 

土佐弁(高知県の方言)で、「準備する」ことを「かまえる」という。

  きょーお客するきにかまえちょいてね
  (今日、宴会をするから支度しておいてね)

お酒好きな県民性もあって、すぐに料理やお酒の支度につなげたがるが、「かまえる」のは宴会準備にかぎらない。旅行の支度も、お金を用立てることも、ふいの来訪に備えておくことも「かまえる」という。

イシス編集学校には、師範代たちが、各期の講座がはじまる前や途中に実務的な指南の方法や事例を学ぶ「伝習座」という場がある。師範たちがさまざまに工夫をこらしてレクチャーを仕立て、師範代らに方法を伝授する。4月6日、53[守]開講に向けた伝習座がゴートクジの本楼でひらかれた。花伝所を放伝したばかりの新師範代たちが発する熱気は、オンラインのこちら側から見守る花伝所の指導陣にもリアルに伝わってくる。

 

座の中盤にかかり、師範の角山祥道は、こう切り出した。

  指南は、「教え方」と「学び方」を分断しない

角山はベイトソンの学習3段階を持ち出した。学校教育における「教える」ことと、編集学校の「指南する」ことの違いにアテンションした。学校教育の現場では不足を指摘し、正誤を伝え、正解を手渡す。それはベイトソンのいうゼロ学習、確認の作業だと言い切った。他方、編集学校の指南は「発見」をともなう発見することが指南だ、と角山は声に力をこめた。

文化人類学者のベイトソンは集団の学習過程を観察することによって、学びとは相互的で相補的であることを見出した。集団メンバーのあいだの学習過程に注目するということは、その「関係」が主語となる。学校教育のような現場では、学ぶ役割と教える役割は二項対立的に明確であり、基本的に単独で一方通行の学びだ。イシス編集学校は、そうではない。ベイトソンのいうところの相補的な学習をめざす。相補的であるとは役割の交換、入れ替えが可能であるということであり、別のことばでいえば、行ったり来たりするということだ。角山の言うように、「教える」と「学ぶ」は分断しない。

(グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』)

 

相補的な学習は「創発」を生む。ベイトソンは、学びは平坦なものではなく論理階型によって捉えることができるとして、学習I、II、Ⅲとした。なかでも「学習Ⅲは創発的な学習だ」と松岡校長も述べている。角山が「指南」と照合したかったのも、もちろん学習Ⅲだ。「学習Ⅲにおける指南の「南」は相転移を起こしていくことだ」と、角山はやや緊張した面持ちで目の前の師範代たちに語りかけた。

  

一気に核心へ斬り込む角山師範

 


48[守]の教室で、私は角山とチームを組んで師範代ロールを担った。ここだけの話だが、師範の角山は「花伝所で教えることを強調しすぎるのがマズイのではないか」と突っ込んだ。この角山の問いに、当時、花目付のロールを担っていた深谷もと佳は、「イシスの学びは相互編集として設営されているのだ」と遊刊エディストの記事で応じた。

 

“情報の扱い方や、情報との関わり方を学ぶということは、とりもなおさず「学び方を学ぶ」ということに他ならない。花伝式目では学衆の学び方を〈学ぶモデル〉と捉え、そこへ指南をつける師範代の〈教えるモデル〉が差し掛かり、互いのモデルを交換し合う場として編集稽古を位置づけている。イシスの学びは相互学習として設営されているのだ。

~【別紙花伝】「5M」と「イシスクオリティ」

https://edist.isis.ne.jp/nest/b_kdn_5mquality/

 

 

守の教室でもっとも学び、カワルのは師範代だ。そのことを強く肌で感じたのは、だれあろう角山とチームを組んだ私自身だ。そこには、たしかに相転移があった。相転移とは、なめらかな変化ではなく、氷がだんだんに水になるように「相」(フェーズ)が変わっていくことだ。そこには行ったり来たりするゆらぎがある。師範代と師範、そして学衆。総勢10数名からなる教室のチームによる学びは、少しづつ行きつ戻りつしながら、しかし確かに、それぞれがそれぞれに相転移を起こしていった。その先で見た景色がカクベツのものだったことは言うまでもない。そして、その相転移のヒミツを知るために私は花伝所へと進んだ。


相転移を起こすには、「自己」を離れることが必要だ。自分を離れることは「他者のまなざしをわがものとする」ことである。世阿弥の風姿花伝に肖ったイシス編集学校の本丸・花伝所は、「教える」と「学ぶ」をインタースコアする「師範代の方法」を学ぶ場だ。学びは、とても動的でアジャイルで、そして、なにより愉しい。必要なことは発見的であることと、ふいの来訪に臨んでいつでもインタースコアを起こせるようにしておく「かまえ」だ。創発はふいの偶然を装ってやってくる。
 

文 山本ユキ

アイキャッチ 宮坂由香

本文写真 後藤由加里

 

千夜千冊446夜グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』

千夜千冊1066夜ジョン・キャスティ『複雑系とパラドックス』

千夜千冊1508夜『世阿弥の稽古学』

 

 

 

  • イシス編集学校 [花伝]チーム

    編集的先達:世阿弥。花伝所の指導陣は更新し続ける編集的挑戦者。方法日本をベースに「師範代(編集コーチ)になる」へと入伝生を導く。指導はすこぶる手厚く、行きつ戻りつ重層的に編集をかけ合う。さしかかりすべては花伝の奥義となる。所長、花目付、花伝師範、錬成師範で構成されるコレクティブブレインのチーム。

コメント

1~3件/3件

山田細香

2025-06-10

 この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
 建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

山田細香

2025-06-10

 藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。

堀江純一

2025-06-06

音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。