ウチソトつらぬき “遊夕” 自適★シンメンバー予告!

2024/03/29(金)08:08
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■あたかも消化管のごとく…

 

 わたしたちの外側にありながら、内側ぜんぶをつらぬいているものってなんでしょう? 

 

 代表的な答えのひとつは消化管です。口からお尻にわたって全長9メートルにもなるという管を「AO円筒」と名づけたのは、おなじみ稲垣足穂さん。体をつらぬく消化管は、肛門(Anus)と口(Oral)でソトにひらいた「内なる外部環境」でもあるのですね。

 

 ……と、3カ月前までなら生真面目に答えていただろうアナタも、昨年末からEditCafeに入り浸るうちに、まちがえて(つい調子に乗って?)こう答えてしまったはずです。

 

 「われわれの外側にあって内側をつらぬくもの……? そりゃ言うまでもなく、お笑い大惨寺でしょ!」

 

 ゴトー(誤答)を誘ってすみません。ゴドー(God)の叱責も待たずクリスマスに始まったチグハグなお寺は、いちおう「イシス縁側のアジール」を標榜していますが、同時に、ありとあらゆるラウンジの壁をぶちやぶり、まるでイシスの水道管といわんばかりにあちこちへ蛇口を覗かせています。すべての講座の外側にありながら、全アカウントの内部を貫通して笑いとうるおい(♪)をもたらす存在、それが大惨寺なのです。AO円筒と取り違えるのも無理はありません。

 

 いや、こんな説明じゃ飲みこめないでしょうか。消化しがたい理屈でしょうか。それこそ内臓的にいうなら「片腹痛い」ばかりで、ぜんぜん「腑に落ちない」でしょうか? 

 

 しかし、臓腑のざわめきを鎮めて、いちど冷静に考えてみてください。毎朝、大喜利生成器「大入道2000」から噴出されたお題を受け、参拝者は「で言っても面白さがわかる回答」をめざし、ブツブツブツブツ音読して、それぞれを震わせてるんです。穴から穴へ、そして管へ……お題・回答がうつりゆくこの循環を「AOサイクル」と呼ばずして、ほかに何と呼べましょうか? 大惨寺とAO円筒との親和性は、火を見るよりもあきらかです(ほんとかよ?)

 

 

■ウチソトつなぐ遊夕番

 

 ところで大惨寺には「遊夕番」がいます。遊夕番とは何者か? ひとことでいえば、「しっかりしたおっちょこちょい」や「頼りになる無頼派」や「もの分かりの良い分からず屋」や「冷めた熱狂者」からなる “やわらかいダイヤモンド集団” のことです。ヒンシュクを買うことも辞さない師範・師範代が集い、「マジメなふまじめさ」「ふまじめなマジメさ」を追究しながら、このにぎやかなイシスの無法地帯を支えています。
 
 大惨寺そのものが編集稽古の「前衛にして原点」であるように、遊夕番もねじれた存在です。これまたAO円筒とおなじく、ポリロールな遊夕番もウチにいながらソトにもひらいています。その名のとおり遊夕番は、毎日の遊刊エディスト記事をお寺にとどける役目を果たしてきました。いわば大惨寺にとっての新聞配達員です。編集は情報の乗り換えに始まりますが、ソト向けに書かれたエディストを再度ウチにひるがえすこともメディアの乗り換えにほかなりません。読者同士はもちろん、記事の書き手と読み手のあいだでもおしゃべり可能な「放課後的プラットフォーム」がここに初めて生まれたのです(ヤッター!)

 

 しかし遊夕番にとっていちばんの役割は、その日のえりすぐり回答にコメントをつけることにあります。10名以上の師範代経験者が、毎日かわるがわる登場しながら、それぞれまったく異なったスタイルや切り口で回答をくすぐっていきます。「だめになってもためにならない」を旨とする大惨寺ですが、うっかりすると「ためになってしまう」コメントもあるかも。ボケやツッコミもれっきとした見方の交換であると実感されるでしょう。見ようによってはモード編集の宝庫でっせ(ふっふっふ)

 

 2週にわたる感門の瀬戸を超え、ざぶーんと新たな潮流へ向かうイシス。シン・お笑い大惨寺もまもなく第100番に至ろうとしていますが、春からは遊夕番にもじゃじゃーんとシンメンバーが加わります。エディストを騒がせてきたあの人やこの人、そして師範代のだれもがお手本としてきた「あの」レジェンド師範まで……! さまざまな人と交わせるチャンス増大。講座や教室の壁をとっぱらい、ウチソトひっかきまわしたいなら今すぐ大惨寺へ。一日たりとも見逃すことなく、ふるって参拝くださいな。

 

夜な夜な噂のシンメンバーと檀家談義をダンダカダン。写真は「バタフライエフェクト」を乞い願うポーズだろうか。あるいは寺への手招きか?笑顔で不気味な面々である。


文/白馬ッ苦連(バニー)
アイキャッチ/筆武将

  • シン・お笑い大惨寺 遊夕番遊夕番

    編集的先達:一休宗純、川上音二郎、椿三十郎、四方赤良。イシスと社会の狭間に生まれし「シン・お笑い大惨寺」。この河原から毎夕声を発するは人呼んで「遊夕番」。時には抜き身の刀のごとくギラギラと、時にはヌメヌメ艶っぽく、この世もわが身も笑い飛ばす。髑髏を蹴飛ばしオッペケペぇ、雨降らば降れ風吹かば吹け。

コメント

1~3件/3件

山田細香

2025-06-10

 この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
 建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

山田細香

2025-06-10

 藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。

堀江純一

2025-06-06

音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。