ソクラテスの「内なる鬼」◢◤[遊姿綴箋] リレーコラム:山本春奈

2024/03/02(土)11:45
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▼ソクラテスには、「内なるダイモン(デーモン)」がいたらしい。小林秀雄の「悪魔的なもの」(『小林秀雄全作品21 美を求める心』に収録)に詳しい。古代ギリシャでは、ダイモンとは神と人との中間者を意味した。個人の運命を導く神霊的な存在で、その人本来の性格にない善い行いや悪い行いをさせたという。ソクラテスは自分にとりついている霊を「格下のダイモン」という意味で「ダイモニオン」と呼んでいた。ちょっとポケットモンスターみたいだ。大モニョン・中モニョン・小モニョン……。

 

▼ソクラテスのダイモンは、宿主の味方だった。プラトンの「ソクラテスの弁明」にはこうある。「これは一種の声であって、いつも何かしようとしているのを止める。何かをせよ、とすすめることはない」。

 現在ではデーモン(悪魔)と言うと、悪い道へ誘惑する厄介なイメージが強いけれど、そういう存在ではなかったようだ。

 小林秀雄は、ソクラテスとダイモニオンの関係をこんな風に書いた。「ソクラテスはダイモンの俘囚(とりこ)ではない。むしろダイモンがソクラテスの意識を目覚ますのである」。

 ダイモンは合図なのだ。命令ではない。無視することもできる声に、ソクラテスは耳を傾け続けた。

 

▼ダイモンの「何かしようとしているのを止める」声は、ソクラテスの「疑う力」を支えていたのではないかと小林は読んでいる。
ここからは私の想像だけれど、「AはAである」という事実を見て「ああ、そうね、AはAだよね」と受け流しそうになった時に、内なるダイモンの声が「ちょっと待て……」と耳の奥に響く。ダイモンはきっとそれ以上は何も言わない。「AはAではない」とも言わないし、「AはBである」とも言わない。そこから先はソクラテスに、もっと言えば哲学対話に、委ねられる。ダイモンの声は、立ち止まるきっかけだ。点滅する青信号みたいなものかもしれない。もちろん、これはダイモンのごくごく一部だけを捉えた想像だろうけれど。

 

▼さてこんなダイモンが、どうしてキリストを誘惑するサタン化して「悪魔」になっていったのかーーそれは、神の創造した世界に悪が存在する理由を「悪魔のせい」にせざるをえなかったキリスト教界の事情だった。(この点については「ほんのれんラジオ」のエピソード11-3で詳しく紹介しているので、ぜひご一聴ください。)


▼デーモンは元々「悪い魔」ではなく超自然的な存在を指していた。この点では、デーモンは日本の「鬼」に似ている。
『鬼とはなにか——まつろわぬ民か、縄文の神か』(戸矢学・著)によると、中国から「鬼」という漢字がやってくる以前から、日本には「おに」というヤマト言葉があった。その頃の「おに」は、畏敬すべき何者かを指した。「おに」は「かみ」と同類だったともいう。それが、死者を意味する漢字の「鬼」を当てはめられたことによって、次第に鬼と神が分離していった。

 

▼元々は「かみ」でもあった鬼が、気づけば豆を投げつけられ、外へと追い払われる存在に。こうなったのには、わけがある。ヤマト政権によるイメージ戦略だったのだ。今風に言えば、プロパガンダが「鬼は外」を生んだ。ヤマト政権は、自らに従わない人々を「まつろわぬ民=ヤマトの神を祀らない人々」と呼び「鬼」と見立てて、征伐対象とした。恐ろしく忌まわしい者というイメージを貼り付けて、退治していい相手としたのだ。

 

▼キリスト教によって悪者にされていったデーモンと、ヤマト政権によって排外された鬼。ソクラテスのダイモンが元々「疑う力」の根底を支えていたことを考えれば、支配者にとって「ダイモン的なもの」が恐怖対象になるのも自然なことかもしれない。

思えばソクラテス自身も、時の権力によって裁判にかけられ、毒盃を傾けさせられた。ただ、この毒盃を手にしたとき、不思議なことにソクラテスのダイモニオンは何も合図を送らなかったという。「止めろ」と言わなかった。その先に待つ世界を、ダイモンは知っていたのかもしれない。

 

▼小林秀雄はこんなことも言っていた。「彼(ソクラテス)にとって、自意識とは、よく生きんが為に統一され集中された意志に他ならず、この意識は不知なるものの大海に浮んではいるが、その不知なるものが、人間の意識なぞより、遥かに巨大な、完全なもう一つの意識であることを否定する理由は少しもないのである」。

 

▼いま、私たちの多くは「内なるダイモン」を見失ってしまった。その一方で、悪魔や鬼を根絶やしにする桃太郎役は飽和している。鬼退治は、もはや中央権力の専売特許ですらなくなってきた。SNS監視社会では、誰もがスマホに齧り付くエセ桃太郎だ。ちょっとでも叩けるものがあればヨダレを垂らして大集合。

自分自身の内なる鬼を見失い、外に敵や他者を次々見つけ出しては、薄っぺらな正義感で束の間だけ気持ちを癒す。そうして、だんだんと心の在処も自分の正体も分からなくなる。いま世界をつまらなくしているのは、闇堕ちした桃太郎軍団なのかもしれない。ならばそろそろ、鬼らしい鬼が銀河系の彼方から到着してもいい頃だ。

 

▼しかし果たしてノイズまみれのこんな時代に、内なるダイモンの声を再発見することなんてできるのだろうか。世間を見渡せば怖気付くことだってある。だけど、思い返せばソクラテスだって、ペロポネソス戦争の大混乱期にソクラテスになったのだ。危機や混沌の中でこそ、内なる銀河に耳をすませてみたい。ダイモンは見失われているだけで、いなくなってはいないのだから。

 

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  • 山本春奈

    編集的先達:レオ・レオーニ。舌足らずな清潔派にして、万能の編集ガール。定評ある卓抜な要約力と観察力、語学力だけではなく、好奇心溢れる眼で小動物のごとくフロアで機敏な動きも見せる。趣味は温泉採掘とパクチーベランダ菜園。愛称は「はるにゃん」。

コメント

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山田細香

2025-06-10

 この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
 建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

山田細香

2025-06-10

 藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。

堀江純一

2025-06-06

音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。