この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

デザインは「主・客・場」のインタースコア。エディストな美容師がヘアデザインの現場で雑読乱考する編集問答録。
髪棚の三冊vol.4 見知らぬものと出会う
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
『見知らぬものと出会う』(木村大治、東京大学出版会)2018年
『機械カニバリズム』(久保明教、講談社選書メチエ)2018年
『〈弱いロボット〉の思考』(岡田美智男、講談社現代新書)2017年
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■美意識は怖がらない
人はなぜ怖がるのか。
一般に感情のたかぶりは思考にネガティブな影響をもたらすとみなされることが多いが、神経科学者のアントニオ・R・ダマシオは、「情動」や「感情」はむしろ合理的な思考にポジティブな影響をもたらし得ると論じている。
たとえば「夜道を歩いているときに感じる不安」のようなネガティブな感情は、一次的には心臓の高鳴りや筋肉の緊張といった身体反応として表れる。この身体反応を、ダマシオは「ソマティック・マーカー」と名づけた。このソマティック・マーカーが危険信号として機能することによって、人は危険を回避し、他の行動オプションを選択するように促されるのだ。反対に、ポジティブなソマティック・マーカーが起動する場面では、人はその信号に誘われるようにして行動へ導かれる。
こうした身体反応による察知力について、棋界の第一人者である羽生善治は「筋の良い手に美しさを感じられるかどうか」と述べている。
勝負の現場では、可能性のある指手を総当たりで探索していては間に合わない。流れの中で瞬時に適切な「読み」を限られた範囲に絞り込むことが将棋の強さに関わるのだ。そうした指手のオプションを取捨選択する際に核となる身体感覚を、羽生は「美意識」と表現しているのである。
さて、現在のデジタル技術は「情報を探索する」ための技術から「情報を評価する」ための技術となりつつある。
ソフトウェアは、手本となる正解例を与えればパターン抽出の精度を上げる。このとき機械は、人間が与えた手本を人間には理解できない方法で模倣し、評価関数を自動調整して行く。そしてソフトウェアは人間のやり方とは異なる文脈で「美意識」を培い、機械の構築した美意識によって評価された情報を、人間は自分たちのクォリティ・オブ・ライフを向上させるリソースにしようとしているのである。
羽生が極限の状況下での判断基準を美意識と呼ぶように、何であれプロフェッショナルな者には不安や恐怖、疲労や欲求、諦念や興奮といった情動を制御することが求められる。その点を強調するなら、身体感覚を持たない機械はプロフェッショナルとしての完璧な資質を有しているとも言えるだろう。なにしろ機械は疲れを知らず、怖がりもせず、諦めることなく、何かを勝ち取ろうとする欲望すらないのだから。
ただしここで忘れてはならないことがある。機械やウイルスが「怖がらない」のは、怖さを克服して情動を制御する能力を獲得したわけではなく、そもそも感情や情動に関する機能や反応回路を持たないからなのである。だが、もしも彼らのふるまいに、あたかも自律的に情動を制御する能力のようなものを見出すことが出来るとしたら、彼らも何らかソマティック・マーカーに相当する機能を有していると想像せざるを得ないだろう。
つまり私たちは、機械やウイルスには「ない」はずの美意識を仮想することによって、彼らのなかに「怖がらない」という資質を見出そうとしているのである。だから私たちは機械を頼りにもするし、ウイルスを怖がりもするのだ。
「他者」とは、「他」でありながら、自分と同じ「者」でもあるという、二重性を帯びた存在なのである。(『見知らぬものと出会う』木村大治/東京大学出版会)
人間の想像力は、想像できないものですら「否定形のアナロジー」によって想像し得るものへと変換して行く。だとすれば、私たちは、既に、「見知らぬもの」との新たな関係を構築し始めていると言えるだろう。
[髪棚の三冊vol.4]見知らぬものと出会う
1) 想像できないことを想像する
2)世界は一つより多く、複数より少ない
3)美意識は怖がらない
4)「0.5人称の私」とN次創作
深谷もと佳
編集的先達:五十嵐郁雄。自作物語で語り部ライブ、ブラonブラウスの魅せブラ・ブラ。レディー・モトカは破天荒な無頼派にみえて情に厚い。編集工学を体現する世界唯一の美容師。クリパルのヨギーニ。
一度だけ校長の髪をカットしたことがある。たしか、校長が喜寿を迎えた翌日の夕刻だった。 それより随分前に、「こんど僕の髪を切ってよ」と、まるで子どもがおねだりするときのような顔で声を掛けられたとき、私はその言葉を社交辞 […]
<<花伝式部抄::第21段 しかるに、あらゆる情報は凸性を帯びていると言えるでしょう。凸に目を凝らすことは、凸なるものが孕む凹に耳を済ますことに他ならず、凹の蠢きを感知することは凸を懐胎するこ […]
<<花伝式部抄::第20段 さて天道の「虚・実」といふは、大なる時は天地の未開と已開にして、小なる時は一念の未生と已生なり。 各務支考『十論為弁抄』より 現代に生きる私たちの感 […]
花伝式部抄::第20段:: たくさんのわたし・かたくななわたし・なめらかなわたし
<<花伝式部抄::第19段 世の中、タヨウセイ、タヨウセイと囃すけれど、たとえば某ファストファッションの多色展開には「売れなくていい色番」が敢えてラインナップされているのだそうです。定番を引き […]
<<花伝式部抄::第18段 実はこの数ヶ月というもの、仕事場の目の前でビルの解体工事が行われています。そこそこの振動や騒音や粉塵が避けようもなく届いてくるのですが、考えようによっては“特等席” […]
コメント
1~3件/3件
2025-06-10
この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。
2025-06-10
藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。
2025-06-06
音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。