この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

12月2日(土)[守]の伝習座冒頭で、遠藤健史師範が宣言した。
みなさんを、本日限りのチームとします。チーム名は心旬(しんしゅん)。素敵な場にしていきましょう!
宣言したのはZOOMチャット内、チームのメンバーとは本楼への駆けつけが叶わなかった指導陣(師範・師範代など)と、オブザーブの学衆だった。リモート参加を、隔てられた寂しい場ではなく、むしろこっちこそが「旬」だと見栄を張った。この見立ては370のチャットを呼び込み「今回は、現場より断然遠隔の方がよかった」と渡辺恒久番匠に言わしめた。その様子をルポ形式でお伝えする。
本チームを支えたツールはチャットだった。これは、人が話していても書き込め、頷きの代わりに絵文字reaction♨︎も届けられる☺︎。現地の話がメインストリートならば、その側道で実況中継や問いを挟む場がチャットだ。この側道はことのほか走りやすく、伝習座10時間の間にチャットは途切れることなく、それに対するreactionも120を越えた。
ではここから、チャットを通した伝習座の様子をレポートする(本楼での声は「 」、チャットの声は『 』で表記した)。
◆理解を止めないチャット
伝習座冒頭は、今後の抱負を師範代たちが述べるコーナーだった。これからの可能性に目を向ける康代学匠は、「理解に走ると、編集が止まる」という限定思考に陥らないためのエールを送った。すると側道では
『分かっちゃイカンのですよ』(恒久番匠)
『着地させないのがいいのだ』(恒久番匠)
と、よりアンコンストラクチャーに向かうチャットが投げ込まれる。そして
『着陸しないで再浮上↑』(遠藤師範)
『ダイブ。潜り込め』(大濱明子師範代)
『うなづく前に、言い換えを』(遠藤師範)
身体フィルターでの言い換えと、会話で編集する言い換えに関するオツ千名言も出た。このチャット編集は《いひおほせて何かある》(松尾芭蕉)であり、理解に止まらない姿勢を文字化した。
◆指南の極意が側道で交わされる
今回、師範代はモードを変えて回答を読み解く指南ワークを行った。同じ回答に対する場合でも、哲学者になり切ると小難しい言葉を選び、子どもに伝えるつもりになると優しい言葉を選んで指南方針を立てた。そのワーク後、師範代のひとりからは、「モードが変わると、読み方も変わる」と自然にフィルターが変わったことへの驚きも出た。この発見を讃えつつ、師範代はアフォーダンスを活かして指南するものだ、という極意が、こっそりと側道で交わされていた。
『学衆さんにモードチェンジさせられている』(と、自身を振り返りつつ、さらに踏みむ大濱師範代)
『それ以外は指南ではないです』(恒久番匠)
このような珠玉の側道だったが、メインストリートに集中する師範代の登場は少なく、代わって番匠・師範、そして学衆が次々と飛び込んだ。
◆学衆の飛び出し
『表情が見える指南がいいよね』(恒久番匠)
『さらにその先…「文字を超えるもの」は何か?』(Sさん:QEBBQ教室)
言葉に滲むものがある、という見立てに対し、問いを挟んだのはSさんだった。テキストでやりとりする守の稽古の中で、文字から読みとる、文字以外で伝える、という可能性に言及した。
『番ボー締切間近、守学衆のみなさんには、ぜひ大量回答、とんでも回答で師範代を大いに困らせて欲しい!』(林朝恵花目付)
『 207回答しました。最初出てくるものから、編集していく内に面白くなってくる』(Kさん:千離万象教室)
このようにKさんは、稽古で回答を重ね磨きしている体験と合わせた。チャットがなければ埋もれていたであろう、問いや気づきが、次々と投入されていった。
◆たたえ合いのチャット
用法語り3を担当した石黒好美師範は、「私を忍者、ベイトソン、石野卓球と見立てたら、ふるまいが変わる」と伝えた。これを引き合いに、吉村堅樹林頭は、「僕は常に海賊でいく」という自身の見立てを伝えた。すると、恒久番匠は『たしかに徹しているよね、林頭は。海賊だったんだ』と、その徹底ぶりをチャットで賞賛した。この側道の言葉は、PC画面を見ていない吉村林頭にはすぐには伝わらない。それを見越したからこそ、つぶやきのハードルは低く、即、書き込めたのだろう。ここに、香りを逃さない旬なつぶやきが生まれた。
走り続ける52守では、どんな側道が生まれているのだろうか。そこを、何に見立てると、もっと飛び込みやすくなるのか。師範代の見立て力が活かされる。
遠藤健史
編集的先達;森博嗣。離島を経て、奥出雲の森の中の病院で勤務する総合診察医。痛みを和らげる医師を志している。運動器疼痛とたたら製鉄とスポーツに詳しい。その俯瞰的洞察力でイシスの未来を担う師範。
コメント
1~3件/3件
2025-06-10
この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。
2025-06-10
藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。
2025-06-06
音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。