この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

数寄のない人生などつまらない。その対象が何であれ、数寄を愛でる、語るという行為は、周囲を巻き込んでいく――。
開講直後の52期[守]師範が、「数寄を好きに語る」エッセイ。第2弾は、総合診療医でもある遠藤健史師範が語る。遠藤師範が日々、頭の先から爪の先まで探る中で、注目しているものとは。
人体の多くは膜でできている。まず皮膚が膜、生命の境。そして、内部の筋・骨・内臓を包むのも膜である。
左手で、右腕をさすると、皮下に「ずるずる」を感じる。この「ずるずる」は膜のズレ感、昔の人は膠(にかわ)と呼び、触っていくと、どこまでも繋がっている。互いをゆるく滑らせ、中に血管・神経のメッセージを通す。「膜学」は今、医学会で注目されている。
柔らかく繋がるといえば、子どもだ。皮膚がゆるんで溶け込みやすく、大人よりも接触を好む。
▲接触大好き、押しくらまんじゅうの子どもたち
子どもどうしのアイダには、風、光、体温だけ? いやいや見えないだろうか、ヒトやモノから伸びた膜が。著者はキッズサッカーコーチをしている。そこで見るのは、ボールが飛ぶと一斉に追い、ゴールを見るとみなでシュートする子ども達の姿。それはもう、我も忘れて次々と…膜で繋がり動くよう。
▲シュート:全身柔らかく、勢いよく次々と
この繋がりは、パスのときに見えてくる。パスと同時に受け手が走る、阿吽の呼吸・碎啄同時がサッカーの醍醐味。その時、選手はパスコースに、ピンと張った繋がりを見る。観客も、強い綱引きを感じ、そして歓声をあげる。「出し手が偉い」、「いや受け手こそ、うまく引き出した」と主客転倒、主客合一。
繋がりを感じながら子どもたち全体を捉えると、アメーバに見えてくる。「ずるずる」と動いて、ふいにピョンと足を出すアメーバに似て、全体で連動し、時にダッシュやパスで飛び出していく。この飛び出しに活き活きが弾ける。
この元気なアメーバは外へと広がり、非接触性の大人までをも巻き込んでいく。包まれた観客は、肩を寄せ合い試合に釘付け。気づけばコーチも引っ張られ、走ってる。そうか「私が指導しているんじゃない、子どもたちが導いているんだ」とここでも主客転倒、主客合一。
▲コーチ(筆者)と選手が、見えない膜で引き合っている
子どもの成長を引き出すコーチングでは、ぜひこの膜を掴み、たぐり寄せたい。見える生体の「ずるずる」から、キッズサッカーの見えざるアメーバまで、膜学はどんどん広がっていく。
文・写真・アイキャッチイラスト/遠藤健史(52[守]師範)
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2025-06-10
この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
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2025-06-10
藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。
2025-06-06
音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。