この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

ふと、一枚のチラシに目が留まった。
主人公のオレンジの髪の色に惹かれて手に取ると、以前、読んだことのあるマンガ『ハイキュー!!』が舞台化された、「2.5次元」のものだった。私は以前演劇をしていたので、舞台のチラシは末端の出演者やスタッフの名前にまで目を通すクセがある。知人の名前があることが多いからだ。さすがに2.5次元に関係しているヤツはいないだろうと思っていたのだが、演出助手に知っている名前を見つけてしまった。同じ時代に演劇に携わり、観た作品や関わった演劇人も多く重なる人だった。まさか。そう感じた自分に、2.5次元の舞台を異質と見なして切り捨てようとしている部分をみた。そもそも、私は2.5次元のことをよく知らない。あえて、「異質だ」と感じさせた2.5次元にスポットライトを当ててみたい。
2.5次元。
他の意味で使われることもあるが、ここではマンガ、アニメ、ゲーム等の2次元コンテンツを原作に、舞台化、ミュージカル化して、3次元にしたものに限定してこの言葉を使う。3次元にしたものなら3次元では?という疑問も湧くが、2次元に寄せて再現度を高めることで、まるでマンガやアニメの世界の中に入り込んだような世界観を創り上げる新ジャンルとして、既存の3次元の舞台と差別化したのが2.5次元なのである。2015年には、日本2.5次元ミュージカル協会が運営する専門劇場が東京・渋谷に設立。2017年7月には市川猿之助が演出を手掛けるスーパー歌舞伎II『ワンピース』の制作発表が話題になった。協会が設立され、歌舞伎まで巻き込む2.5次元。大きな波が起こらず、低空飛行だった演劇界に起きた事件である。
2.5次元をもっと理解するために、「既存の舞台」にも目を向けてみる。こちらはジャンルが本当に様々。能、文楽、歌舞伎などの古典芸能だって「既存の舞台」だし、かつては古典芸能や商業演劇に反発して、西洋の戯曲を取り入れるところからはじまった「新劇」も、いまでは「古典」と言われるようになった。60年代からは、「小劇場」ブームがおこる。唐十郎、鈴木忠志らの第一世代から次世代つかこうへい、野田秀樹などが続き、大きなうねりとなった。かつての勢いはないものの今でも新世代は生まれていて、新しい才能を排出し続けているので、日本の演劇のメインストリームは、まだ小劇場にあると言えるのかもしれない。主流となれば、彼らをイロモノ扱いしてきた大御所たちの態度も変わってくる。徐々に劇団、ジャンルの垣根が低くなり、有名な俳優も小劇場に出演するようになってきた。それでも新しい芽が芽吹く環境としての小劇場は、その価値を失っていない。「既存の舞台」とは、日本の演劇の歩んだ足跡であり、今を牽引しているのは小劇場で、ホンモノになろうとしているアマチュアたちということだ。
一方、2.5次元の規模は大きい。制作のプロが大きな資本のもとに創り上げている。商業演劇の新ジャンル?いや、今までの商業演劇との大きな違いは俳優の名前より、マンガ原作を前面に出しているところであろう。これによって、今まで劇場に足を運ぶことのなかった層が舞台の魅力に落とされたのである。コロナ禍の影響で、マンガやアニメを楽しむファン層が厚くなり、圧倒的な人気を誇る作品もある。2次元を忠実に再現することで、今まで2次元に留まっていたこの人たちを、ごそっとリアルの世界に引っぱり出した。これが2.5次元の起こした大きな変化なのだ。舞台へ足を運ぶ層が増えることは、大いに歓迎したい。作品と自分だけの世界から、劇場へ。そこでは自分自身も観客として場の一部となり作品の一部となる。メディアが変換されることで、新たな引力が生まれたのだ。さらに、最近では俳優の公開オーディションも行われ、無名俳優をスターへと変容させる場ともなった。かつて新劇が担っていたところを小劇場が引き受け、2.5次元も新人発掘の場となっている。
広い意味で言えば、ディズニーランドも2.5次元かもしれない。ディズニーアニメから3次元に飛び出した別世界。従業員を「キャスト」と呼んでいるところも、あの広大な敷地が2.5次元の舞台であることを思わせる。熱狂的なファンの多さも、メディア交換が生んだ引力によるものかもしれない。私は精神障害を持つ人を対象とした、日中一時支援事業所で心理カウンセラーとして働いているのだが、先日一人のディズニー好きの利用者さんが「痛バ」を作っているのを発見した。「痛バ」とは「痛いバッグ」の略。自分の好きなものをトコトン応援する「推し活」の一つで、推しの缶バッチやキーホルダーを大量につけて飾るバッグのこと。彼女はディズニーキャラクター、グーフィーが大好きで、大きなトートバッグに小さなぬいぐるみを大量に縫い付けていた。ぬいぐるみは、一つとして同じものはなく、それぞれ違う衣装を着ている。短期間ではとても集められないし、一つ一つの単価も高い。時間もお金も手間もかけた、彼女の情熱の塊だ。出来上がった作品は圧巻だった。まるでグーフィーのナイアガラ。バッグを持つと、身体全体からグーフィーが溢れだしてくるようだ。これはイタイ。痛いほどに主張し、痛さを曝け出している。しかしこの「痛さ」は、見る側と見られる側とでは意味が変化してくるように思える。見る側からは批判めいた目線を感じ、見られる側にはその目線を受ける覚悟が見え隠れする。「痛さ」は弱さではなく、耐える強さを連れてくるのだ。
私が2.5次元という響きに感じたのも「痛さ」だったように思う。はじめは見る側の痛さを感じていた。ところが、2.5次元の作品を動画配信サービスで観ていた時、『ハイキュー!!』、『ヘタリア』の後に観た『僕のヒーローアカデミア』で痛さの質が変わってしまった。この作品はご存じの方も多いだろうが、かなり特殊な世界モデルが設定されていて、非現実的なシーンが多く展開される。舞台化するのは困難で演出家の腕が問われるものだ。派手な照明と音響の奥に開拓者としての気概がほとばしる。その舞台上に、私は「いつかの自分」の面影を見てしまった。あの頃の憧れ、あの頃の葛藤、あの頃の挫折。心の創を伴った、痛いほどに演劇が好きだった未熟な役者がそこにいた。演出家が、好んで観ていた鴻上尚史や西田シャトナーの演出助手をしていたせいだろうか。現実には起こりえない状況を、なんとか再現しようという試行錯誤が垣間見えたからだろうか。はたまた、かつて自分たちも使っていた方法が使われていたからか。新ジャンルといえども、それは自分と無関係ではなく、地続きであると感じた。2.5次元は、かつて新劇、小劇場に身を置いた私が追い切れなかった可能性のひとつなのであろう。感じた違和感にカーソルを当て、2.5次元の扉を開けて見えてきたものは、面影のなかの「たくさんのわたし」と挑み続ける者たちへの賛美だった。
イシス編集学校にも、新たなスターが育成される場所がある。私が師範を務めている花伝所だ。ここに飛び込んだ入伝生たちは、師範代という方法を学ぶため「花伝式目」に袖を通し、痛みを感じながらも「たくさんのわたし」に向き合い、師範代という別次元の自分を目指して、ひたすらに型を身に落とす。学ぶ側から教える側へと学びの次元が変わる、この場は何次元だろう?私にとっての編集学校も異次元への扉であった。友人に誘われ、それほどの覚悟もなく足を踏み入れたが、いつの間にやら異世界の住人になっている。この学校にも独特の引力がある。
文 小椋加奈子
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2025-06-10
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2025-06-10
藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。
2025-06-06
音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。