この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

どのような情報も何らかの編集を経てそこにあります。既になされた編集を見抜き、新たな組み換えを起こすことを可能にするのがイシス編集学校の基本コース[守]の15週間です。硬くなってしまった思考回路を柔らげ、世界の見え方をめっぽう面白くする[守]の38の型。開講間近の第51期の[守]師範が、型を使って、銘々の数寄を語るエッセイシリーズをお届けします。初回は、師範阿曽祐子が美生柑をダンドリ編集の型で語ります。
美生柑を食べるためには、細心の注意をもって手を動かすことが肝要だ。その段取りは皮剥きから始まる。厚いのにしなやかな黄色い皮は、みかんのように手で剥くことができる。両手こぶし大の体内には、豊かな果汁と柔らかな果肉を湛える。注意深くふたつに割って、丁寧に房を分ける。果汁が漏れそうになる。ここが踏ん張りどころだ。甘さと酸っぱさと爽やかさ、この三位一体を実現する汁を一滴も失いたくない。ひとつずつ袋を開くように薄皮を剥いたら、慎重に素早く、口に運ばなくてはいけない。僅かでも力の入れ方を間違えると、果汁が零れ落ちる。
子どもの頃、私たちは身の回りのあらゆるもの手に取っては動かした。ときには口に入れたり、引きちぎったりして、母親をハラハラさせたものだ。私たちは、手を通して物と出会ってきた。手を動かすことで、その物を理解してきた。手は、物を迎え入れながら、その物のかたち、大きさ、肌ざわり、硬さ、重さ、温かさといった性質を知っていく。それは、同時に自分の輪郭を知ることでもあり、物との接触面にあらわれでる新たな自分との出会いでもある。事物との協働作業を連綿と繰り返しながら、私たちは生きる世界を広げてきた。
ここ数年、新型コロナウィルスの感染対策という大義名分のもと、私たちの手は制約を受け続けた。事あるごとに、消毒液を吹きかけられ、自由に動かすことを妨げられた。思い起こせば、それ以前からも、文字を書くことがキーボードを打つ作業に代わられ、お絵描きはマウスパッドの操作に代わられた。かつては五本の指で、道具を通して接触面から伝わってくる振動を感じながら、手加減をしたものだが、いまやそこにあるのは、無機質で一様な工業製品の手触りばかりだ。
「手当て」「手さぐり」「手ぐすね」「手本」「手紙」と「手」のつく言葉が非常に多い。松岡正剛は、日本にとって手は大きなものだという。「たなごころ」という言葉がある。「手に心」の文字通り、私たち日本人は、手に心を感じようとしてきた。美生柑と手による真剣で繊細な協働作業、その果てに広がる新たな宇宙。寒さに弱い美生柑は、他の柑橘よりも遅めの春に登場する。目下、美生柑の旬到来だ。手を伸ばさずにはいられない。
(アイキャッチ 阿久津健)
◆イシス編集学校 第51期[守]基本コース◆
日程:2023年5月8日(月)~ 2023年8月20日(日)
詳細・申込:https://es.isis.ne.jp/course/syu
◆51[守]師範陣によるエディットツアー、限定15名募集中!◆
「あなたに潜む編集術~硬直した思考を柔らかくする~」
日時:2023年4月23日(日)14:00~15:30
詳細・申込:https://es.isis.ne.jp/admission/experience
阿曽祐子
編集的先達:小熊英二。ふわふわと漂うようなつかみどころのなさと骨太の行動力と冒険心。相矛盾する異星人ぽさは5つの小中に通った少女時代に培われた。今も比叡山と空を眺めながら街を歩き回っているらしい。 「阿曽祐子の編集力チェック」受付中 https://qe.isis.ne.jp/index/aso
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2025-06-10
この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。
2025-06-10
藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。
2025-06-06
音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。