38[花] めでたい「しるし」が刻まれる時

2023/01/08(日)08:08
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日本ではまるでこの歌でしか正月が祝えないかのように、「年の初めのためしとて、終わりなき世のまでたさよ」と歌う。「年の初めのためし」の「ためし」とは何か。「ためし」は験しで、修験の験、経験の験、効験の験である。

千夜千冊451夜『正月の来た道』大林太良

 

2023年の年があけた。

 

昨年の師走に錬成とキャンプという「ためし」を経て、38期の花伝所入伝生たちも、年があらたまると同時に「しるし」を得る。そして、それぞれに未知の扉を開いていく。扉を「あける」前の「ためし」。今回はその一部を覗いてみよう。


時には自ら伏せていた「わたし」をあける瞬間もある。秘密にしてきたのではないけれど、言い出せなかった自分の一部を言葉にするのは、なかなか力がいることだ。道場演習のさなかで、くれない道場Oは内側にうずくまっている「わたし」を感じていた。そんな時に立ち上がった「仮面の告白」というスレッド。自由に自分を語ることができる場であった。Oは思い切ってその流れに乗ってみる。

 

花伝所に入伝して自分の思いにフィードバックして、心の奥の奥に感じる置き去りにしてきた思いがムクムクっと出てきたから仮面の告白に背中をおされて言語化してみようかと思いました。ここで告白ができて何だか薄皮が剥けたような気がします。

 

Oの告白は信仰についてであった。守・破と編集稽古を続けていくなかで、別様の自分を求めながらも、人生で大きな影響を受けた部分にふれないできたことに違和感を感じていたようだ。あけることで動き出した「たくさんのわたし」。Oはここから、さらにイキイキと道場でふるまっていく。「あける」ことが運んでくる風に乗ったのだ。


覚悟を持って「あけた」Oのような経験とは違う「あけかた」もある。「あいてしまった」という方がしっくりくるだろうか。自らの意志とは関係なく、やってきた異質にこじあけられるような体験だ。回答と向き合って見えてくるものは、相手ばかりではない。自覚していなかった、固くて、狭くて、情けない自分に出会うこともある。出会っただけではなく、言葉にしてみることで道場全体を巻き込む流れが起きたのは、わかくさ道場であった。

 

受け入れ難い回答事例と出会った時、思わず拒否反応が出てしまったI。イビツさが引っかかり、「切り口が見出せない!」と指南を書く手が止まってしまった。指南が書けずに葛藤するIは「悩み」と題して、書けない状態にあることを明かし、その心境を「シャッターガラガラピシャン!」と表現した。このまま指南が書けなければ、Iは立ち止まってしまうかもしれない。シャッターが閉まる音の響きに、道場仲間が駆けつける。閉塞感をユーモアたっぷりに言葉にしてみることで、むしろ開ける準備が整った瞬間であった。Iのために始まった対話。だがいつの間にか、集った仲間は「受容とは?」という問いに自分事として向き合うようになる。受容できない状態になることは、他人事ではないからだ。長く続いたスレッドは、問いと気づきが重なり合い、美しい模様となった。閉じてしまったことが開く意識を生み、ふれた心を巻き込んでいったのだ。

 

自分という性をつくっているのは、年代を追って重なってきた自分の地層のようなものである。仮りに名付けて人性層というべきか。その層を一枚ずつ手前に向かって剥がしていく。そうすると、そのどこかに卑しい性格層が見えてくる。不安や卑屈や憎悪がはっきりしてくる。そこでがっかりしていてはまずい。そこをさらに埒をあけるように、進んでいく。そうするともっとナマな地層が見えてくる。これは人知層というべきか。そこを使うのだ。

千夜千冊807夜『都鄙問答』石田梅岩

 

花伝所の式目という方法の獲得と、師範代ロールの「ためし」は、まさに「手前の埒をあけていく」ことであった。師範代になるからといって、まったく違う人間に着替えるわけではない。自分という地を離れることはできないのだから。本来の自分=人知層を使うためには、垢のように積み重なった層を剥がしていかなければならない。そこには人に見せたくない弱みや、自分も向き合いたくない偏見、閉じ込めておきたい記憶もあるかもしれない。「あけていく」ことには大きな痛みが伴ったはずだ。ただ、ここで訪れるのは痛みだけではない。同時に発見もある。痛みからもたらされた発見は、編集的自己を豊かに彩る。人知層に至れば、剥がれた層が「たくさんのわたし」として使えるようになるからだ。意識的に使うことができれば醜く感じていた部分も、ふくよかな味となる。

 

「埒をあける」こととは言葉にすることからはじまる。38[花]で交わされたたくさんの言葉は、重なり合い交じり合い、「いま、ここ」に辿りついた。層を剥がす瞬間。あける時。その痛みを、不安を、覚悟を、心から愛でたい。乗り越えてきたものには、誰にも取り上げることができない「しるし」が、確かに刻まれるのだ。


みなさま あらためまして

 

あけましておめでとうございます。

 

文 小椋加奈子(錬成師範)
アイキャッチ 阿久津健(花伝師範)

 

 

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  • イシス編集学校 [花伝]チーム

    編集的先達:世阿弥。花伝所の指導陣は更新し続ける編集的挑戦者。方法日本をベースに「師範代(編集コーチ)になる」へと入伝生を導く。指導はすこぶる手厚く、行きつ戻りつ重層的に編集をかけ合う。さしかかりすべては花伝の奥義となる。所長、花目付、花伝師範、錬成師範で構成されるコレクティブブレインのチーム。

コメント

1~3件/3件

山田細香

2025-06-10

 この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
 建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

山田細香

2025-06-10

 藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。

堀江純一

2025-06-06

音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。