この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

■2022.6.15(水)
編集学校は「不足」を歓迎するけれど、奨励しているワケではない。何であれケチをつける態度は容易いから、自他の不足を発見するだけなら編集力など必要がない。不足はその原郷に留まる限り不足のままであって、不足から旅立つ力こそが編集力であり編集術なのだ。この「原郷からの旅立ち」を編集学校は歓迎し、旅のなかで遭遇する困難に向かうことを奨励しているのだ。(尚、英雄マザーは「困難との遭遇」の先に「目的の察知」を予告している)
入伝生たちがまもなく始まる錬成演習に不安と緊張を募らせている様子なので、[校長室方庵]から「編集の膝」(*)を添えつつ、過去期の先達師範代にアンケートした「指南のヒント集」(*)を差し入れた。旅立ちへ向けてココロとカラダのストレッチになることを願う。
*「編集の膝」:
大事なことは、ちょっとした「きっかけ」こそが万事を好転させるということです。(…)この「きっかけ」はどこにあるかというと、ズボンやスカートの中の膝にある。この膝を動かすんです。体全体を動かすのが億劫でも、膝は動く、しかも膝が動けば方向が出る。ディレクションが動く。
編集も膝。まず膝を動かして、体全体の感覚に動きを感じさせ、それをもって全体を動かす支点にする。そんなコツを掴んでください。[校長室方庵:45]より
*指南時間アンケート:
指南に要する時間についての「身体的メトリック」を共通感覚として掘り起こす目論みで、これまでに編集学校の教室を担当した師範代に広くアンケート調査を行った。ここでは詳細の公開は控えるが、師範代の工夫やルーティン等について多くの経験知が寄せられた。
師範代にとって指南における相互編集は、対学衆だけでなく対時間、対身体、対環境のマルチなインタースコアであることが流露する興味深い調査となった。
==主な質問項目==
【質問1】[守]の師範代登板時に、1本の指南のためにどのくらいの時間を見込んでいましたか?
【質問2】学衆さんの回答が届いてから、実際に指南編集に着手するまでのプロセスで、自分なりのルールやルーティンなどを設けていましたか?
【質問3】指南編集をスピードアップするために工夫したり実践したことがあれば教えてください。(集計期間:2021/12/21〜2022/1/15)
■2022.6.16(木)
EditCafeに2つの「錬成場」が設られた。30名の入伝生が2組に分かれて、明日から2週間強、指南力強化のための実践演習が行われる。
それぞれの錬成場には、演習の充実を願うホットメッセージとして「虚に居て実を行うべし」「実に居て虚にあそぶことはかたし」が掲げられ、3Aの躍動を促している。
さてあらためてこの「虚」と「実」について考えるに、「虚実皮膜」という言葉が示唆する通り、「虚」と「実」は儚くも微妙なメトリックによって分かたれながら錯綜し、綯交ぜになっている。虚実は互いに侵犯しあうエディトリアリティ(編集的現実感)なのだ。
こうした「虚」と「実」との相互擬態関係は、「感」と「応」の編集プロセスにも当て嵌まるように思う。「問・感・応・答・返」は決して一直線に進む編集プロトコルではなく、しかも5つのステージは截然と分節することができないことを、私たちはよくよく承知しておいた方が良いだろう。
*〈エディトリアリティ〉の4象限:
◆ 自身のエディティング・モデルの動向に注意を向けることは、編集稽古で常に求められるカマエである。
◆たとえば、目の前に差し出された情報から何かの連想が動いたとき、それは「わたし」にとって感じたものなのか? それとも、考えて応じようとしたものなのか? また、それらのイメージや言葉は現実なのか? 虚構なのか?◆〈エディトリアリティ〉に想定される4象限は互いに内属しながら外包しあっており截然と分節することはできないが、この二軸四方のマップ上のどこかに「わたし」が立っていることは確かだ。
◆「実」に留まったまま「虚」に遊ぶことは難しい。「虚」の領域に身を置いて「実」に臨むなら、「感・応」の短絡を避け、編集を自由に動かすための「程」や「間」をもたらすだろう。インタースコアに不可欠な3Aやリバースエンジニアリングは「虚」に居てこそ躍動する。「虚」とは「想像力」の変名なのである。
■2022.6.17(金)
錬成演習開始。いよいよ入伝生は「出題される側」から「出題する側」へロールチェンジする。
入伝生には「問・感・応・答・返」が「問」から始まることを心得ておいていただきたい場面だが、37[花]は心なしか出題の足取りがルーズに見える。はじめから多くを求めるのは酷なのだろうが、せめて出題者としての意識を持たなくては「場」を動かすことは難しい。
わかくさ道場で吉井優子花伝師範が「出題」と「配信」の違いを問いながら師範代のカマエを糺している。「配信」は情報伝達に特化しているが、「出題」は情報生成に開かれているだろう。
師範代にとって「指南を書くこと」と「学習のための場づくり」は一蓮托生だから、編集稽古の場で「出題」と「指南」を分断して考えてはならない。さりとて出題と指南を同時に行うことはできないから、二つを分けるためにメトリック(程)が生じる。この場合なら、何かを開くために何かを伏せることが求められるだろう。あるいは、何かを促すために何かを仕掛けるゲームメイキングも必要かも知れない。そうした編集感覚を、錬成演習でのトライ&エラーで掴んでいただきたい。
アイキャッチ:阿久津健
>>次号
深谷もと佳
編集的先達:五十嵐郁雄。自作物語で語り部ライブ、ブラonブラウスの魅せブラ・ブラ。レディー・モトカは破天荒な無頼派にみえて情に厚い。編集工学を体現する世界唯一の美容師。クリパルのヨギーニ。
一度だけ校長の髪をカットしたことがある。たしか、校長が喜寿を迎えた翌日の夕刻だった。 それより随分前に、「こんど僕の髪を切ってよ」と、まるで子どもがおねだりするときのような顔で声を掛けられたとき、私はその言葉を社交辞 […]
<<花伝式部抄::第21段 しかるに、あらゆる情報は凸性を帯びていると言えるでしょう。凸に目を凝らすことは、凸なるものが孕む凹に耳を済ますことに他ならず、凹の蠢きを感知することは凸を懐胎するこ […]
<<花伝式部抄::第20段 さて天道の「虚・実」といふは、大なる時は天地の未開と已開にして、小なる時は一念の未生と已生なり。 各務支考『十論為弁抄』より 現代に生きる私たちの感 […]
花伝式部抄::第20段:: たくさんのわたし・かたくななわたし・なめらかなわたし
<<花伝式部抄::第19段 世の中、タヨウセイ、タヨウセイと囃すけれど、たとえば某ファストファッションの多色展開には「売れなくていい色番」が敢えてラインナップされているのだそうです。定番を引き […]
<<花伝式部抄::第18段 実はこの数ヶ月というもの、仕事場の目の前でビルの解体工事が行われています。そこそこの振動や騒音や粉塵が避けようもなく届いてくるのですが、考えようによっては“特等席” […]
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2025-06-10
この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。
2025-06-10
藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。
2025-06-06
音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。