この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

(記事写真:深谷もと佳花目付より頂戴し、竹岩が編集。)
「話す」「聞く」「食べる」。
私たちに綿々と受け継がれ、なんとはなしに行われてきた行為たち。
あらためて注意のカーソルを向ければ、どんな景色が見えてくる?
言語聴覚士の端くれである筆者が、もっとも身近な自然である「私」を寄り道たっぷりに散歩していきます。
雨降りの道、一人の少女が斑点模様の壁を見つめている。それは、カタツムリが何十も張り付いたコンクリート塀。少女は木の枝で、一つ一つの模様を丁寧に剝がし始める。
ぽとり、ぽとり、静かな落下は雨音へ溶けていく。
しゃがみ込み透き通るツノに見惚れる彼女は、この小さな生き物に潜む壮大な秘密をまだ知らない。
でんでんむしむし かたつむり
おまえのあたまは どこにある
童謡でも謎めく生体に注目の集まる彼ら。その小さな体に、実は世界最大の数が隠れていることを知っていただろうか。二回めとなる本日は、そんなお話からはじめよう。
1万~2万。この数字は、なんとカタツムリの歯の本数だ。
歯があることにも驚きだが、あらゆる生物のなかでも最も多く、しかも摩耗するたび生え変わるという。その機能や姿かたちも、私たちの想像するところとはおおきく異なるようだ。
カタツムリの口には、小さな歯がびっしりと並ぶリボンのような器官(=歯舌)がある。この小さな歯は一つ一つがとても頑丈で、これを使って食べ物をおろし金のようにすりおろすことができるのだ。植物の茎や葉っぱ、時にコンクリートさえ削りとり食べてしまうという(!)
都会の道や塀を這う彼らは、実はランチタイムの可能性があったのだ。
私たちの場合は、どうだろう。
口を開けば、前歯があり、奥歯があり、親知らずなんかが隠れている。
カタツムリの歯が食べ物を削るのに対し、私たちの歯は食べ物をかむことで細かくくだいている。この、かみくだく行為を「咀嚼(ソシャク)」と呼ぶ。オノマトペに注目すれば、「ぱくっ」と口に入れてから、「ごくん」と飲み込むまでの、「もぐもぐもぐ」の工程といえるだろうか。
普段の生活で、自身の咀嚼によくよく意識を配る人も少ないだろう。そこで、この「もぐもぐ」のプロフィールを、歯と舌の動きに注目しながら、ちょっと詳しく追ってみよう。
まだまだ簡略的な説明だが、少しイメージが湧くだろうか。
私たちの「もぐもぐタイム」には、こんなふうに歯や舌(その他、実は頬や口の天井なども)が協調し、食べ物を飲み込みやすくするための微調整が行われているのだ。
また、さらなるイメージの助けとして、この一連の動きは「餅つき」に喩えることもできる。
即ち、上の歯が杵、下の歯(あるいは、口なか全体)が臼。舌は、臼の横にしゃがんで餅米を返す「返し手さん」だ。返し手さんはただ餅をひっくり返すのではなく、手に水をつけ餅がまとまりやすくなるようサポートをしている。お察しの通り、この手の水が唾液となるわけだ。(と、なんとも言い得て妙な喩(ゆ)かげんなのだ。)
今宵、みなさんの食卓にはどんな料理が並ぶだろうか。
ハンバーグ、青菜のお浸し、炊きたてのご飯。それらを一口含んだら、食べ物が喉元へと消えてしまう前に、ぜひ歯や舌といった口なかの情報を追いかけてみてほしい。そこに、勤勉に働きつづける餅屋の職人たちの暮らしぶりを覗けるかもしれない。
ところで、この「咀嚼」。広辞苑には、「かみくだいて味わうこと」から派生した、「物事や文章などの意味をよく考え味わうこと」の意味もある。
食事場面を考えても、私たちはただ食べ物の成分を機械的に感知しているわけではないだろう。われわれは、咀嚼のあいだ、口に含むものの色艶を、香りを、かじる音を、舌触りに歯触りを、果ては体の奥から湧きあがる記憶を――ありとあらゆる情報の享受に愉しんでいる。そして、その道中のすべてを「味わい」へと含めているはずだ。そのため、もし誰かが噛み終えたものを取り込んだならば、その途次に広がる味わいの景色はまったくぼやけてしまうだろう。
私たちはきっと、食事であれ思索であれ、豊かな五感の発見に歓びながら、ありのままを味わうことを求めている。
だからこそ、好きな本は原著にあたり、自然の原風景に惹かれ、時代がどれだけ移ろうとも《原型》に遡っては、手付かずのそのままを頬張りたいと涎を垂らすのかもしれない。
最後に白状すると、筆者はかつて冒頭の少女だった。
雨の季節になると、この無垢な悪戯姿はよみがえる。「そんな一人遊びばかり、やめときなよ」。文章を書きながら、思わずかつての自身に声をかけたくなってくる。年を重ねた私の歯は、雨音のリズムにあわせ、いつまでも苦虫を噛みつづけている。
竹岩直子
編集的先達:中島敦。品がある。端正である。目がいい。耳がいい。構えも運びも筋もよい。絵本作家に憧れた少女は、ことばへの鋭敏な感性を活かし言語聴覚士となった。磨くほどに光る編集文章術の才能が眩しい。高校時代の恩師はイシスの至宝・川野。
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評者: 竹岩直子 言語聴覚士、 イシス編集学校 [守] 師範代 まだ小さな歯と舌の隙間。そこから理想の風が生まれる。 ドリルブックの「す」の頁。発音の練習に励む児は、ある単語をみて目を光らせた。 「せんせい、これ、あと […]
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2025-06-10
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2025-06-10
藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。
2025-06-06
音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。