この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

「とんでもない客を乗せちまった」
道場で演習中の花伝生がタクシー運転手なら花伝師範は注文の多い乗客かもしれない。これは師範代養成コース、道場演習の話だ。花伝生は、式目の地図を片手に、一直線に目的地まで走り抜けたいが師範はそれを許してくれない。
「海沿いを走ってくれ」「この辺りの名所は?」「ここはゆっくり見たい」
「そろそろ急いで」「少し戻って」「あっちの道が空いていた」
「なんでここで曲がったの?」「窓を開けて欲しい」「カーブはスムーズに」
「ブレーキはソフトに」「コーヒーブレイクしようか」
注文が次々飛んでくるので、運転手は常に客のことを考えねばならない。読心術、いや3Aをもっと使えたら先手を打つこともできるのだろうが、最初のうちは、ひたすら客に応じながら走るしかない。
36[花]花伝生は課題に追われながら、変移を繰り返す日々を送っている。学衆から師範代に着替えるということは、ホスト側の視点と方法にガラリと変わるため想定以上の負荷がかかる。わかっていたつもりの事が、殆どわかってなかったことに気づき、唖然とすることも度々だ。
花伝生からは、「ゲシュタルト崩壊がおきた」「頭がフリーズした」「迷走している」「短い亀の足がギュルギュル空回りする」と叫び声も響いている。戸惑いや思考の空白は、いつもの自分を手放すための洗礼で、稽古を重ねていくうちに、自己を対象化し再編集をかけるコツをつかむ。世阿弥のいう「離見の見」の境地である。ここまで来れば稽古は苦しさも含めて快感に変わるのだが、渦中の花伝生には、もう少し先のターゲットかもしれない。特にM4(Management)くらい迄は、一人で悶々とするよりも注文の多い乗客と密に交わしながら、複眼的なドライブを続けることだ。
ちなみに今期の乗客である花伝師範の顔ぶれは、fOULのロック魂を宿した岩野範昭、ISIS贈与論にアツイ中村麻人、エディ・ジョーンズ擬きの岡本悟に井村雅代擬きの吉井優子らだ。日夜、花伝生の運転する車にひょいと乗り込み、絶妙な間合いで注文をつける。注文のつけ方に決まりはないが、高いスキルと自在なスタイルが求められる。
私は花目付として時々、花伝師範にもタクシー運転手をしてもらい、自分が乗客になってみる。イメージしているのは、ジャームッシュ映画『ナイト・オン・ザ・プラネット』のタクシーの乗客、ベアトリス・ダルが演じる全盲女性だ。どんな景色が流れ、何が起きているのか、いちいち師範に描写してもらい、言葉で景色や道場の手触りを感じている。
想像タクシーはかわるがわるつづいていく。
林朝恵
編集的先達:ウディ・アレン。「あいだ」と「らしさ」の相互編集の達人、くすぐりポイントを見つけるとニヤリと笑う。NYへ映画留学後、千人の外国人講師の人事に。花伝所の花目付、倶楽部撮家で撮影・編集とマルチロールで進行中。
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ミームとは一体なんだろうか。 編集学校でよく登場するこの言葉を松岡正剛校長は「意伝子」と訳しているが、何がどう伝承されているのかは漠然としている。 「お題ー回答ー指南」というテキストベースの編集稽古をしている中で一体なに […]
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2025-06-10
この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。
2025-06-10
藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。
2025-06-06
音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。