モンキリ型からヘンシュー型へ ― 44[守]伝習座講義録【前編】

2019/11/12(火)17:33
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 言葉に限らず、思考や行動までもがモンキリ型な人々や社会。いまこそ見方を捉えなおす方法にふれ、自己の内外の多様性を再発見し、通り抜け、ヘンシュー型の社会へむかいたい。
 2019年9月29日、44[守]伝習座が豪徳寺・本楼で開催された。この記事は、師範代向けの講義原稿をもとに作成をした。



■モンキリ型社会
 電話で、会議で、SNSで、ついつい使う紋切り型の言葉。便利だから反射的に発してしまう。慣れてしまうと、思考までが紋切り型になる。すると疑問や違和感はおさえられ、無関心がはびこり、社会が滞っていく。
 「凡庸な悪」(ハンナ・アーレント)とは、そういったところから生じるのかもしれない。
 自分で物事をとらえることが編集だとすれば、紋切り型には編集がない。本稿では、そんな人々や社会をモンキリ型とよぶことにする。

   『紋切型社会』(武田砂鉄、朝日出版社)
   紋切型の言葉が連呼され、物事がたちまち処理され、消費され

   ていく。そんな言葉が溢れる背景には各々の紋切型の思考があ

   り、その眼前には紋切型の社会がある。

 


■モンキリが切り落とす
 わかった素振りで言葉を使ったり、プラスチックワードをドヤ顔で口にする人も多い。そんな上滑りなコミュニケーションが、無機的で同調的なモンキリ型の雰囲気、世論を形成していく。

   ◎松尾貴史のちょっと違和感 2019年9月15日(毎日新聞) 
   彼は、秘め事の性的嗜好(しこう)を表す言葉だと思っていた
   ようなのである。もちろん、性癖という言葉にそのような意味
   はないが、(中略)勘違いする理由はわかりやすい。二字熟語
   で、「性」と「癖」の字で成り立っているのだから、「性の癖」
   だと思ってしまうのは無理もない。

 モンキリ型の言葉は、一見当たりさわりがない。モンキリ型の社会も人も無難に見える。その外側の“ややこしい”領域に目をむけると、思いもがけない展望がひらけてくる。
 キュレーターの櫛野展正は、ヤンキーや老婆、ひいては知的障碍者や死刑囚の作品を「アウトサイダー・アート」としてとり上げている。ありきたりな価値観にとらわれない表現者の作品には、モンキリをうちやぶる力がある。
 モンキリ型社会にのっかっていると楽ではあるが、息苦しくもある。最近の話題作は、そんな閉塞感をあらわにしてる。
 韓国のチョ・ナムジュは、女性の目を通じて「社会のふつう」の外部を描いている。『82年生まれ、キム・ジヨン 』(チョ・ナムジュ、筑摩書房)は日本でも13万部を超えるベストセラーとなった。
 公開中の映画『ジョーカー』は、「ありきたりではないもの」の集積といえる。

   映画『ジョーカー』(町山智浩、パンフレットより)
   ジョーカーには人並み外れた能力は何もない。しかし、弱みも
   ない。自分の命すら惜しいと思っていない。しかも、その行動
   は予想がつかない。金や権力が欲しいわけではない。復讐です
   らない。ただひたすら破壊を繰り返すが、何の目的も理由も動
   機も意味もない。

 モンキリ型社会は同調を求め異質を排除するが、世の中は理路整然と成りたっているわけではない。むしろ新たなる編集のチャンスは、モンキリに切り落とされた“外側”にある。

 

  • シミズマサトシ

    編集的先達:町山智浩。紋切り型社会から編集社会へ。師範代時代から編集工学への探究心と志に溢れるホープ。新師範になった途端、伝習座の用法解説に抜擢された。批評力に優れ、自己に更新をかけ続けている。

コメント

1~3件/3件

山田細香

2025-06-10

 この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
 建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

山田細香

2025-06-10

 藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。

堀江純一

2025-06-06

音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。