[週間花目付#19] 自律か、自動か

2021/07/08(木)19:00
img NESTedit
週刊花目付

<<前号

 

■2021.07.01(木)

 

 人はなぜ学びを躊躇うのだろう?

 

 学ぶプロセスのなかで直面する困難は、主題の難解さや方法の迷走ばかりではない。「私は私のままでいたい」というホメオスタシスが学びの拒絶を招いていたりもするだろう。生命は自身のパターンに制約を受けた自律システムだから、異物が侵入したときに発熱したり下痢をおこしたりするのは正常なリアクションなのだ。

 

 だからもしも学びが戸惑いや困難や難解さを連れてきたとしたら、そのとき既に「意味」が生成されていることに気づいておきたい。外部から導入された知識が自動的にインストールされるのではなく、自身のエディティング・モデルが発動して情報を自律的に解釈処理したということだ。何につけ情報の意味や価値は「わたし」が生成しているのである。

 

我々は自分の内面の中に降りていっても自分自身にたどり着くことはできないし、世界のほうに寄っていっても世界そのものにたどり着くことはできません。つまり、自分の内面と外の世界のちょうど中間点に形成されたものが意識であり、知能であるわけです。

『人口知能のための哲学塾 未来社会編』(三宅洋一郎/BNN)より

 

 花伝所での式目演習は「編集的自己(エディティング・セルフ)の自立」を目当ての一つとして想定している。編集的自己は場において自覚的に発動する境地であるから、座学のみで培えるものではない。師範代ロールを担うことを通して体験的に獲得するところまでがカリキュラムの本来である。
 さてこの編集的自己をいかに導くかは非常な難題だ。式目の洗練も指導方法もまだまだ開発途上にある。余白の大きなターゲットだけが置かれていて、そこへ至るプロフィールを試行錯誤している状況だ。

 

 そこで、編集的自己の予備概念として「編集的自覚(エディショナル・アウェアネス」ということを提唱してみたい。ホメオスタシスによる「自動的なわたし」から、エディティング・モデルを自覚した「自律的なわたし」への移行をイメージメントしてもらえたら思惑通りだ。
 編集的自覚をもたらすためには、「自動的なわたし」の一時的な遮断エポケーが求められるかも知れない。それは学習者にとって戸惑いや困難や難解さの体験となるだろう。そのフラジャイルだがプレシャスなステップを、拒絶せず受容する方向へ進むことが編集的自己への第一歩となる。

 


■2021.07.03(土)

 

 指南トレーニングキャンプ1日目。
 入伝生たちが、事前に準備を指示された課題を持ち寄って演習に取り掛かる。これまでの演習との一番の違いは、モニター越しに生身の相手がいて、リアルタイムでインタースコアを交わす点にある。

 

 リアルタイムといっても、テキストによるコミュニケーションの場合は互いの表情が見えないし、受信してから返信するまでの間には考えたりタイプするための時間が必要だからターンテイクにタイムラグが生じる。
 この不自由さは制約にもみえるが、「問答」の間に「感応」を蠢動させる余白が担保されている点で、編集的自由へ向かうチャンスがもたらされている。このことは何度でも強調しておかなくてはならない。情報交換の際に「感」を自覚的に受容し「応」を意図的にふるまうことが、式目演習のコアコンピタンスなのだ。


 こうした編集的自覚をもってコミュニケーションに臨むなら、テキストの速度はオラルの速度に劣らない。むしろオラルは「感」「応」をリアルタイムで処理しなくてはならない分、負荷がかかる。

 もし要請される負荷に耐えるほどに問感応答返の処理能力が鍛えられていない場合、コミュニケーションはウワベを取り繕うか、即応的な感情に巻き込まれるか、長く生産性のない会議ばかりが横行するだろう。

 


■2021.07.07(日)

 

 指南トレーニングキャンプ2日目。
 夜を越えて高速で大量の情報交換を連ねた入伝生たちが、締切の刻限へ向かって一気呵成に加速する。アッパレな一座建立だった。

 

 ワークの課題は、いわゆる「正解のない問題」だ。題意解釈の自由度が高い設問である。

 自由度の高さは、往々にして不自由さをまねく。仲間や環境に対して、不調和を避ける方向へアフォーダンスが働くのだろう。与えられた自由とは、実のところ制約だらけなのだ。

 

 はたして不自由さを打開するには、意志や勇気や仮説が求められる。とすれば、意志や勇気や仮説を発動させやすい環境と、抑圧させる環境とがありそうだ。
 ならば意志や勇気や仮説を発動させやすい環境を用意するにはどのような「ツール・ロール・ルール」や「もてなし/ふるまい/しつらい」が求められるのか?

 

 おそらく、「場への信頼」を醸成しようとするなら「型への感度」を育む作業が不可欠だろう。場づくりを心理的な問題として捉えていては核心へ迫れない。
 もちろん心理的な緊張や不安、あるいは過度の謙虚さなどの理由で場が活性しない状況はよくあることだが、ではカオスに身を置く当事者にとって何が不安なのかと言えば、「型」が感知できなくて活動が不自由になっているのだ。
 このとき「型」には様々なタームを代入できるだろう。モデル、モード、メトリックと言い換えても良いだろうし、システム、レイヤー、BPT、略図的原型などを見ても良い。問感応答返は、何らかの型に注意のカーソルが向かわない限りは一歩も動かない。

 

 型の稽古はインナーマッスルの鍛錬と似ている。価値に気づきにくく、成果を誇示するには地味で、根気ばかりが試される。

 

36[花]>>

  • 深谷もと佳

    編集的先達:五十嵐郁雄。自作物語で語り部ライブ、ブラonブラウスの魅せブラ・ブラ。レディー・モトカは破天荒な無頼派にみえて情に厚い。編集工学を体現する世界唯一の美容師。クリパルのヨギーニ。

  • 【追悼】松岡校長 「型」をめぐる触知的な対話

    一度だけ校長の髪をカットしたことがある。たしか、校長が喜寿を迎えた翌日の夕刻だった。  それより随分前に、「こんど僕の髪を切ってよ」と、まるで子どもがおねだりするときのような顔で声を掛けられたとき、私はその言葉を社交辞 […]

  • 花伝式部抄_22

    花伝式部抄::第22段::「インタースコアラー」宣言

    <<花伝式部抄::第21段    しかるに、あらゆる情報は凸性を帯びていると言えるでしょう。凸に目を凝らすことは、凸なるものが孕む凹に耳を済ますことに他ならず、凹の蠢きを感知することは凸を懐胎するこ […]

  • 花伝式部抄_21

    花伝式部抄::第21段:: ジェンダーする編集

    <<花伝式部抄::第20段    さて天道の「虚・実」といふは、大なる時は天地の未開と已開にして、小なる時は一念の未生と已生なり。 各務支考『十論為弁抄』より    現代に生きる私たちの感 […]

  • 花伝式部抄_20

    花伝式部抄::第20段:: たくさんのわたし・かたくななわたし・なめらかなわたし

    <<花伝式部抄::第19段    世の中、タヨウセイ、タヨウセイと囃すけれど、たとえば某ファストファッションの多色展開には「売れなくていい色番」が敢えてラインナップされているのだそうです。定番を引き […]

  • 花伝式部抄_19

    花伝式部抄::第19段::「測度感覚」を最大化させる

    <<花伝式部抄::第18段    実はこの数ヶ月というもの、仕事場の目の前でビルの解体工事が行われています。そこそこの振動や騒音や粉塵が避けようもなく届いてくるのですが、考えようによっては“特等席” […]

コメント

1~3件/3件

山田細香

2025-06-10

 この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
 建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

山田細香

2025-06-10

 藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。

堀江純一

2025-06-06

音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。